イカロス「再」墜落

「片腕の男」テンペラ・アキーラ  F6 2010

春から夏へ、梅雨という微妙なこの時季、皆さんいかがお過ごしでしょうか?活動が制限されたり、気分がパッとしないなど、雨が鬱陶しいという人は多いようですが、わたしは雨は嫌いではありません。なんとなく落ち着いて、一日を自分ペースで過ごせるような気がするからでしょうか。

雨の日はなぜか写真整理などやってしまいます。先日もパソコンの中の写真を整理しているうち、「飛ぶ男」などの作品写真や制作中のデータがおびただしいほど出てきました。
 「男シリーズ」とでもつけたらいいのか「飛ぶ男」「浮かぶ男」「シェルターの男」などなど、「○○の男」というタイトルの作品をたくさん描いてきました。その過程で「少年と犬」「海峡」「イカロス」「○○のヴィーナス」等のシリーズも生まれてきました。
 現在進行中の「Apple」もシリーズ化しかかっていますが、実はこれはもっとも初期に一度シリーズ化し、中断を経て50年近く続いているものです。心理的には「男シリーズ」にもずっと繋がっている感覚ですが、どういうふうにつながるのか、自分でもきちんと整理できていません。今から数年のあいだがラストチャンス、元気なうちにこれらを何らかのかたちにまとめないと、もう時間が無いとあらためて思いました。

 表題の「イカロス」をちょっとだけ説明します。ギリシャ神話に、天空の細工師(大工)ダイダロスが息子のイカロスに、大空を自由に飛び回れる翅を背中に作ってあげたという話があるそうです。「決して太陽には近づくなよ」という父の注意も、若く活発なイカロスには馬耳東風。結局は太陽に近づきすぎたイカロスの翅のロウが溶けて脱落、イカロスは海に落ちて話は終わりですが、わたしの発想はそこから始まりました。
 イカロスは死んだのでしょうか?おなじく大工の家に生まれたわたしは、イカロスをこの21世紀に海から引き揚げ、わたしが空想で翼を創りなおし(そういえば「僕たちの翼(200号)」という作品も描いたなあ)、もう一度空を飛ばせたらどんな風景が彼の心の中に見えるだろうか、それを絵にしてみようと想いました。それが「飛ぶ男」です。
 「飛ぶ男」つまり現代イカロスはおよそ3000年ぶりに「新生」シリーズの何点か(「新生no9」は 2,1×5.4mの大作でした)を経て、脱皮し、生まれ変わり、19世紀的な都市の上空をすでに飛んでみせました(「飛ぶ男」(200号)大宮市での個展、晨春会展等にて発表)。次に20世紀の都市の上を飛ぶイカロスを描いていた時、東日本大震災が起き、わたしは続きが描けなくなってしまいました。
 1000号ほどの大きさの絵で、天空での大洪水が下界の都市にまで注ぎ込み、そこに溺れる人物を300人以上描き込んだところでした。洪水と津波の違いはありますが、まさに東日本大震災そのままの絵で、仮にこの絵を仕上げても、どうせ震災の映像を見て描いたのだろうと思われるだけだという想いと、この時期に絵など描いていていいのか、という考えが重なったからでもありましたが、物理的にも制作のための時間と場所を失ったからでもありました。描きかけの絵は丸めてほぞんしてあるかどうかも今は定かではありませんが、制作中の写真が数枚パソコンの中にはあるはずです。

パソコンでの写真整理をしながら、その未完成の絵を軸に再制作し、すべてのシリーズを一枚の絵にまとめることができたら、、わたし自身の最後の作品としてふさわしいだろうと考えていました。わたし自身がイカロスになって、再びもとの海に墜落して終わり。いいストーリーかもしれないと思っています(笑)。
 ※不勉強で、最近まで安部公房「飛ぶ男」があることを知りませんでした(未だに未読)。まあ、どこにでもありそうな題名だなと、最初から思ってはいましたが。
 ※この絵、今朝(06/23)のタイタニック号鑑賞ツアーでの潜水艇タイタンの残骸が発見されたというニュースと、かたちのせいか、どこか重なって見える気がします。

深呼吸

「ローズ・ガーデン」水彩教室でのデモ制作

「一読十笑百吸千字万歩」という、健康で長生きの秘訣をまとめた語をご存知でしょうか。毎日の健康実践目標だそうです。ご存知の方も多いと思いますが、「一読」は一日一回は内容のある文章を読む(「毎日一冊」はかなり無理)。十笑は大きな声で十回は笑うこと。百吸は深呼吸を百回、千字は文章を書くこと、アウトプットですね。日記でもいいかも知れません。万歩は文字通り1万歩くこと(最近では8000歩くらいが良いともいわれているようですが)です。出典は分かりませんが「論語」か何かでしょうか。

わたしはわりと最近になってこの語を、当時それを実践している方から教えて頂きました(現在はご高齢になり、「万歩」ができなくなっているようですが)。一つの理想論と思って聞いていましたが、それを長い間実際に続けていると聞いて仰天してしまいました。ご想像どおり、そういう人はただの人ではありません。わたしも感銘を受け、少しでも真似してみようと思ったのですが、達成できたことは一日もありません。高校生、大学生あたりならできそうな気もしますから、その頃からやっていれば、わたしももう少しマシな人になっていた「可能性」はあった「かもしれません」。

先ほどの目標のうち、意外にできそうでできないのが「十笑」と「百吸」です。笑うことと息を吸うことですから、一番自然で簡単なことのように思えるのですが、自分や家族の中に問題を抱えていたり、忙しかったりするとできないものです。この語のなかでは、意志、意識、知識に関わるのが「一読」と「千字」。「百吸、万歩」が身体、「十笑」が心に関わること、だと思います。心が閉じていれば笑うことができません(医学的にはハッハッハッハと声を出せば似たような効果があるそうですが)。
 怠け者でもできそうなのが唯一「深呼吸」ではないかと思うのですが、今度は忘れてしまうのです。百回というと一気にというわけにはいきません。何回かにわけてやることになるでしょうが、忙しいとつい後回しになり、結局は忘れてしまうのです。身体に関わると分類しましたが、やっぱり心がざわついているとできません。心を平らかにしなさい、ストレスを身体から吐き出す、という訓えなんでしょうね。

わたしの実践は、その方の十分の一がせいぜいでした。それを心がけていてさえも、です。皆さんはいかがでしょうか。せめて深呼吸だけでもしよう・・そうか、深呼吸って、姿勢が悪いとできないのか・・忙しさに紛れて自分を忘れてちゃできないんだ・・立ち止まって自分をじっと見ることなんだな―・・なんて。 深呼吸って意外に深いなあ・・。

晨春会’23 展を終わって

「庭を見る」テンペラ F6  2010

昨日(2023.06.18)で晨春会展が終わりました。わざわざ時間を取って見に来て下さった皆さん、ありがとうございます。感謝です。わたし自身もいろいろな方から、展覧会の案内状を頂くのですが、忙しさだけでなく、体調不良などで行けないことも多いので、「わざわざ」という言葉を実感を持って感じます。ありがとうございました。

今日から次のスケジュールに移ります、というだけではなんだか殺風景な挨拶ですが、実情はそんなところなんです。「次のスケジュール」って新作に取り掛かるかのように聞こえるかもしれませんが、実はさらに無粋なことに、まずは展覧会の後始末。それから中断していた細々の世事、やりかけの雑事をできるだけ済まして、やっと描きかけ、あるいは新作に取り掛かることができます。絵にとりかかるまでのモロモロを考えると、正直かなりウンザリです。でも、わたしだけでなく、皆がそうなのですから、呑み込むしかないのですが。

会期中の6日間、たくさんの人が見に来て下さり、メンバーがそれぞれの絵の前で簡単な説明をしたりします。絵は見ればいいだけで、解釈も自由にしていいのですから、説明など蛇足なだけでなく、見る人の感性や解釈にある方向性を与えてしまうマイナス面も持っています。その点では、できるだけ何も言わない方がいいと思っているのですが、どうもそれだけではなさそうです。
 他人に説明することは、目の前の自分の絵とこれまでの過程について、これから描く絵について、一枚の絵の外側からも考えるきっかけになります。それは作家にとって大きなプラス面で、展覧会はそのためにやっているといってもいいほどです。本当は深く自問自答すればいいだけの話かもしれませんが、見知らぬ他人との問答を繰り返すことが、普段とは別の新しいフィルターで自分の思考をろ過し、研ぎ澄ましていくことにもなるように思います。

ただ、やっぱり普段と違うことをするので、変な具合に疲れます。若い時は展覧会の前2~3カ月間は目の前の絵以外は何も目に留まらないほど集中、閉会後の2~3カ月は虚脱状態で他に何にもできないほどのアップダウンでした。いまはもう個展もしなくなり、そんなこともなくなりましたが、それでも疲れるのは年齢が加算されているからかも知れません。あと10年、いやあと5年、何を最後に表現できるのか、大げさかもしれませんが、人生の意味が問われているんだなと、期間中ずっと考えていました。