「焼き鮎」を描いてみる

「焼き鮎」歯がギザギザしている フェルトペン+鉛筆

誰でも簡単に手に入り、フェルトペンに適した画題はないかなと、スーパーなどを物色したがなかなか適当なものがない。仕方なく「干しウルメイワシ」を買ってきて、3匹ほど皿の上に置いてみた。「イワシかあ」さすがにしけたモチーフだなあと思いつつ、鉛筆を持った途端に思い出した―「冷凍庫に鮎があるはず!」。

暮れにHさんから頂いた大きな鮎が、まだ何匹か残っていたはず。ありました、ありました。ちょっと霜がついたまま、絵の具用の皿の上に置いてみた。―いいじゃん。誰でも“簡単に”というところからはちょっと外れるかもしれないが、クロマグロを捌いて見せるとかに比べれば、“誰でも”の部類には入るだろう。生の鮎でも良かったのだが、あえて「フェルトペン」で描くためには、つるり、ヌルヌルよりはゴリゴリ、カチカチのほうが鉛筆との対比が際立つと思ったからだった。

とりあえず、写真のごとく。確かに鉛筆とフェルトペンとの対比は鮮やか。鮎の存在感が力強い。だが、こういう対比に慣れていないせいか、一抹の違和感がないでもない。ビミョー。画としては、鉛筆が「描きすぎ」。もっとサラッと描くか、(これはBとHで描いているが)2Hくらいで薄く、ち密に描いた方がよかった。残念。でも描いちゃったものはしょうがない。次回頑張ろう。

晩ごはんのおかずはもちろんこれ。心なしか絵の失敗の味が加味されて、ビミョーな味になっていた。※「焼き鮎」の制作プロセスはのちほどYouTube で公開する予定で、現在編集中です。

水彩-人物習作 アップしました

編集に長過ぎるほどの時間を費やして、やっとアップした。凝った編集をしているわけでもないのに、そのほかのことが何一つできないほど時間を遣ってしまった。これではコストパフォーマンスが低すぎて、YouTubeを続けていくことができないと実感した。

身体も疲れるし、電気代、燃料費の高騰している現在では明け方近くまでの作業は、なにより楽しくない。仕事でもないのに、仕事の何倍も辛くなってきてしまった。どこかで脱線してしまったらしい。ちょっと大変だけど、新しいことを覚えるのが楽しい、次は何を作ろうかという自分への期待感がなくちゃ。―考え直す必要がある―

YouTubeを始めるまではYouTubeを見ることもほとんどなかった。他にやることが一杯あって、視聴している時間がなかったからだが、やること、やりたいことは今も以前と変わらないのに、YouTubeを見、その数十倍の時間をかけて作るのだから、それらができなくなるのは当然だ。―みんなはおつまみのポテトチップスを食べて遊びたい―なのに、自分で作ったこともない饅頭なんかを、レシピ見ながらせっせと作って持参、え~っ、饅頭なんか重たすぎるよ―と言われているイメージが浮かんでしまった。

せっかく作ったけど、その饅頭どうするよ?何度も味見して、自分のおなかはもうケッコウ状態だし…って。何度も書いてしまうが、計画性のなさ、計画的な頭脳の使い方を知らないからだな。そういう脳ミソへの改造の仕方を、誰かYouTubeで作ってくれ~。

分断

「分断」という言葉が最近久しく流行ったのが、トランプ前アメリカ大統領の時だった。分断という言葉ではなかったが、地球規模での北半球の経済的に豊かな国々に対して、貧困にあえぐ国々の多い南半球との格差から生じる様々な問題を指して「南北問題」とか言っていた時代、その前、その前と辿っていけば、ずっと分断の時代だと言えないこともない。

最近言われている「分断」は、これまで格差がなかった(と思われてきた)、世代や、地域、職種などにもその格差が政策などでは埋めきれないほど大きくなってきたことを、特に指しているようである。もともとあった格差が、見えない格差から見える格差として表れてきたと言えるだろう。

のんびり、無自覚に生きてきたわたしだが、やはり「分断」をひしひしと感じることが増えてきた。じぶんにとっての具体的なことをいちいち挙げるのも面倒だし、はばかられるが、日本の場合、とくに政権党の政治家が国民間の「分断状況」を知らないばかりか、興味さえもっていないというのが問題だ。けれど、そういう政治家を国会に送って、税金の使い道を好き放題にさせているのはわたしたち国民だということがもっと問題で、そういうアホな国民を作り上げるための教育をしてきたのが日本の政治であり、その政治に全く興味を持たないのが投票率30%以下などという国民であれば、一蓮托生、運命共同体であって、分断など無い。かに見えるが、そんな政治家が国民と運命を一緒になどするものか。

防衛(予算の)論議も盛んだが、そもそも「何を守るのか」さえ定かではない。第二次世界大戦での日本の戦争目的は「国体護持」だったが、「国体」とは何かさえまともに議論もされないまま、軍民合わせ一千万人以上の人が死んでいった。今回の軍事予算で何を守ろうとするのかと言えば「アメリカとの同盟関係」を守るという、本末転倒の「政治防衛」といってよいのではないか。戦前の「国体護持」と実によく似た図式なのである。せっせとアメリカ製の武器を買いさえすれば「同盟関係は安泰」である。中国が攻めてきたとき、アメリカが守ってくれる?「お前に売ってやった武器で十分勝てるはずだ」とわたしがアメリカなら言うだろう。「なんならもっと高性能の武器もあるが、もっと高いぞ」とも。
 世界地図を見れば(見なくても)「戦争がない時こそ有効な軍事同盟」だということが一目瞭然。アフガニスタンでタリバン相手にアメリカがどんなぶざまな姿で逃げ出したか、ついこの間見たばかりではないか。中国相手に、日本のための戦争などできるわけがない。近年、平気でウソをつく総理大臣に力を与えてしまったばかりに、そのあとも皆ウソをつき続けなければならなくなり、そのうち嘘も嘘だと思わなくなり、分断は表ではなく、内側へ進行してしまった。