スケッチ

気が滅入ることだらけ。社会的にもだが個人的にも。自分だけで解決しなければならない問題もあれば、自分ではどうにもできないこともある。

自分ではどうにもできないことは放っぽっておくしかないのは解っているのに悶々とする。そのくせ自分で解決しなければならない問題にはいつまでたっても手をこまねいている。そして勝手に滅入っている。典型的な馬鹿の自画像。

いや、このスケッチのことじゃない。これはそうした硬い雰囲気の中で、少しでも体を動かして自分をリラックスさせようとして描いてみたものだ。中身はどうでもいいが、描くこと自体に意味がある。スケッチというのは有難いものだ。描いているうちに身体から緊張が取れていく。慣れた動きに、脳が反応し、それが身体にフィードバックされて筋肉が弛緩する、そんな感じ。

コーヒーの朝

今朝も美味しいコーヒーができた

「コーヒー」が売れているのだそうだ―インスタントではなく、豆や粉が。コロナが世界を小さく閉じ込め始めてから。人々が外へ出かけなくなって、やっと自分の時間を取り戻し始めているということにもなるだろうか。

世界経済は停滞気味、かといえばそうでもないらしい。もちろん、これまでの働き方、ビジネスの仕方では大幅ダウンの企業、業種はあるだろうが、たとえばこのコーヒーのように、「個人」に関わる度合いの大きな業種ほど空前の利益をあげているようだ。先進国?の中では、日本以外では横ばいかむしろコロナを機に業態転換、経済構造の変革によって良い経済循環になっているとも聞く。

経済評論家でもないのにこんなこと書いても仕方ない。―コーヒーを淹れ始めるようになって1年近く、やっと「コーヒーの味」が判るようになってきた、ような気がする。それまではインスタントコーヒーのがぶ飲みで、それでも「まあ、コーヒーってこんな味だよ」と思っていたが、今からみるとそれらはまったく「経験智」にならなかったのだった。

お茶も同じことだろう。味の分かる人は美味しいお茶を飲み、こんなもんだと水代わりに飲む人にはそれなりにしか判らない。考えてみればコーヒーやお茶に限らず、すべてのことにそれは言えるのではないだろうか。一杯のコーヒーはわたしに平穏と静かな積極性を与えてくれるようになった。―ウクライナで戦う両国の兵士たち、逃げ惑う市民たち。一刻も早く、彼らにも深い一杯のコーヒーをゆっくり味わえる日が来ることを心から願う。

Apple in landscape(風景の中)

風景の中の Apple (アイデア)

目覚め前、ココシュカのポスターの夢を見た。2019年5月の「ウィーン・モダニズム」展を、大阪の植松君と一緒に見たときの絵の夢だ。もうすっかり忘れていたのに、何の前触れもなく、すっと夢の中に現れた。記憶が薄れないうちにと、とりあえず描きかけの100号のキャンバスに「バーチャル加筆」してみた(もちろんココシュカのポスターの格調はずっと高い)。

ここ1週間ほど、制作にあたって足踏み状態だった・・・方向は決まっている―描き方もほぼ決まっている―「でも具体的なイメージが湧いてこない」―イライラしながら、別の小さな絵を描いたり、アトリエの細々した片付けや作業をしながらずっと考え続けていた。が・・・何も湧いてこず、少し焦り始めていた。

オスカー・ココシュカは20世紀、たぶん「表現主義の画家」とされているだろう。オーストリアに生まれ(最終の国籍は英国。スイスにて没。クリムトやシーレなどとともに「ウィーン分離派」の運動にも参加し、目覚ましい発表をしている(年譜から初めて知ったが、バウハウスでも教鞭を取ったことがあるらしい)。けれど結局はグループに与せず、自分ひとりの世界を歩んだ人である。
 正直に言うと、彼の絵は今もわたしにはよく解らず、決して好きなわけでもない。それでもなぜか作品の「重さ」のようなものが、ずっとわたしを離さなかった。―それから3年経った今朝になって忽然とそれが夢枕に立ち上がるなんて。―夢の啓示を忘れないよう、すぐ二階に跳び上がって展覧会の図録を捜索した。

夢の中で、「これだよ!」と叫んだような気がする。時計を見ると6時前。寝たのは1時半頃だから、睡眠学的にはある種の「神がかりの時間帯」らしい。「神(がいるならば)がアイデアをプレゼンしてくれた。これを活かさなければ、文字通り罰が当たる」と思いながら寝具を跳ね除けたのだった。