I’m happy, just now.

Apple-田園 (ほぼ終了)

ほぼ終了。筆を擱いたこの瞬間だけは解放感がある。これが夜なら一杯飲みたくなるところだが、今は昼だから同じ一杯でもコーヒーのほう。今日の夕方には冷めてきて、あそこがどう、ここをどう直そうかと考え始める。だからこの一瞬は貴重である。

描き始めてから、あしかけ1ヶ月くらい。わたしの場合、平均すると小品より大きな作品の方が早く仕上がるようだ。それはきっと事前の準備の有無による。小品は思いつきだけで描き始めることが多い(それはそれで良い点もある)が、たまにそれが途中で止まってしまうことがある。そうすると、永久に乾かないコールタールのように、何年もうじうじとまとわりつく(それも悪いとは言えないかも知れないが)。だから、とにかくいったんは終了まで最短距離で行きつく必要がある。そのうえでじっくり加筆するなり、あらたな作品にステップアップするのがいい。

ウクライナで戦争が起きている。そのさなかに、こんな大脳のしわが伸びきったような絵を描くなんて(しかも「田園」!)、同じ地球に棲み、同じ時代の空気を吸っているといえるのだろうか―もっと現代を象徴するような絵を描かなくちゃ―なんて焦ったりしていたが、それが現代なのだ、と最近は思う。
 家族を養うために他国へ人を殺しに行く傭兵がいる。いっぽうでその犠牲者を弔う仕事もある。爆弾や兵器を作る会社もあれば、その傷を治す薬を作る企業もある。いつでも学ぶ機会のある世界もあれば、一生教育に無縁な子どもたちもいる。それが世界なのだ。そしてそれらが深いところで、みんなつながっていることがやっと解ってきた。世の中に、他といっさい無関係なものなんて何一つないのだ。

自分ができることをやる。無理せず、でも誠実に。それがすでに難しいことなのだし。

日曜日

水彩で制作中  (写真に頼らず、見て描くことを大事にしている)

今日はカメラからパソコンへのデータ転送とカメラのメモリーに空きを作っていた(メモリーカードを買えば済む話だけど)。

カメラはいつでも使える状態にしておかなくてはならないから、データ転送を優先する。転送とデータ削除を切り替えながら、ついでにパソコン内の他の写真、ビデオも保存するかどうかチェック。最近の課題なのに、こんな画像があったことをもう忘れていた。

描かないとすぐ忘れてしまうし、描けなくなる。年を取れば誰でも目は衰えるし、手も震えてくる。ひとつ覚えるのにも時間がかかり、せっかく覚えても、そばから忘れていく。「衰え」が「いい味」になるには別の次元の能力がたぶん要る。しかも、練習して獲得できるものでもないような気もする。

でも、まあ、そんなこと考えたってどうにかなるものでもない。気が向いたら、とりあえずまた何か描いておこう、そんな気になった。

オレンジピール

クッキーかなと、頂いたピンクの袋を開けたらオレンジピール。春になったのを感じた。妻の実家には夏ミカンの木がたくさんあり、子どもがまだ小さい頃は休みの度に連れて行き、その実をもいだものだった。

自分の頭ぐらいの大きな実をもぎ取る体験が非日常的でエキサイトするから、使う目的も無くやたらに摘み取ってしまう。ある日、山のように盛り上がった夏ミカンをどうしようか頭の隅で悩みつつ、オレンジピール作りを子どもに持ちかけた。ガス代とグラニュー糖代の方がかかるとの反対を押し切って、はじめて二人だけで作ってみた。苦みがあり、チョコレートも無かったが、とても喜んでくれた。どっさり作ってしばらく楽しんだいい思い出だ。

それ以来、子どもを喜ばすことなどやってあげた記憶がほとんどない。自分のことだけで一杯一杯だった気がする。いまさら反省したって遅いが―「へぇーっ、チョコレートのボリュームがすごいね」と息子。やっぱり買ったものとは違うね、と妻。「これは夏ミカンじゃないね。苦みがないもの」とわたし。

ああ、気持に余裕がないなあ。気分的なものだけでなく、すべてに余裕がなくなってきた。生きている残り時間も含めて。せめてわたしも、何か美味しいものを自分で作るだけの気持を取り戻したいなあ。