夏夕立(なつゆだち)

Jangle girl (CG)

夕方のウオーキング中雨に降られ、びしょぬれになった。先月に続き、今年二度目のびしょぬれだ。二度ともなぜか白っぽいズボンを穿いているとき。ズボンが透けて、下着まで見えてしまう。女性だったら大変。こいつは夏用の薄い作業ズボン。汚れてもいい気楽なものだが、悪い運を背負ってしまったらしい。雨の上がった玄関前でそいつを脱ぎ、外のバケツに叩き込む。You! Fire! (おまえはお払い箱だ!)と宣告。トランプ前米大統領のように指を突き出して。そのあとは青空まで出た。

今朝の段階では、暑くなるが上空に寒気が入り込み不安定になる。ところによりにわか雨があるかも、という予報だった。ウオーキングの前、空を見上げると、暗い色の雲が広がっていた。

スマートフォンで雨雲レーダーを確認。1時間ごとの動きをモニターしてみると、雨雲はすでにほぼ通過していて、そのあとはしばらく雲はないことを確認して外に出た。歩き始めのぽつぽつもすぐに止み、涼しい風の中を2㎞ほど歩いて市街地をはずれた。田んぼ道にさしかかるころ、再びぽつぽつと落ちてきた。振り向くと嫌な感じの雲がおおきな絨毯のように広がっている。おまけにその中で稲妻が光っていやがる。しかし、単独の雲で、その周囲は雲が切れていた。

妖しい感じの雲なので、背景か何かに使えるかもと、写真を撮った。風が急に強まってきたが、頭上の雲はその一個だけ。風はさらに強まり(わたしは風が大好きだ)、涼しさを感じているうちに、雲は頭上を通り過ぎた。「もう雨の心配はない」と思った直後、ざあーっと音がして雨粒が急に大きくなった。田んぼの向こうが急に霞みはじめ、振り返ると市街地もぼんやりしたシルエットになるほどの雨の強さ。上にも黒い雲など無く、明るく白い、靄のような雲だけ。そんなとこからこれほどの雨が降ってくる?「狐の集団嫁入り?」なんて、この現象を表現しつつ、天気予報としては正解と認めてUターン。すでにシューズはぐじゅっぐじゅっと鼻を鳴らし、ズボンは透け始めていた。

晨春会展を終えて

青いカモメ   紙・アキーラ

春会展は昨日6日(日)午後五時で終了。コロナ禍下、躊躇はしたが開催して良かったと思っています。ご来場の皆さん、ありがとうございました。来場できなかったけれど、応援してくださった皆さん、ありがとうございました。厳しい意見を下さった皆さん、ありがとうございました。それらの励ましを得て、また次回展への力にしたいと思います。

東京・六本木の国立新美術館では春の美術展が軒並み、作品は全国から搬入・審査し、陳列までして開場しないという「異常事態」が続いていました。コロナを恐れるのは自然だけれど、「(正確な知識で)正しく恐れる」という、過剰反応しないようキャンペーンをしていたのは国や都、県などの自治体だったはずです。それが突然開催を中止させること自体、一貫した論理性もなく、ただ目の前の状況次第で、行き当たりばったりの対応をとってきたということです。そういう意味で、わたしたちが冷静に判断し開催したのは、論理的にも明快であったと考えています。

観客が少ないのは予想済通り。集計は聞きそびれましたが、例年の三分の一程度でしょう。観客のほとんどは高齢者。出品者のほとんどが高齢者で、各自がその知り合いにDMを出すのですからそれも当然ですが、5年後を考えると、この展覧会もいろんな意味で瀬戸際に立っていると考えざるを得ません。

入場者数の減少は必ずしもコロナのせいばかりではないでしょう。コロナが収まれば回復するかと問えば、わたしの答えはノーです。展覧会をビデオで見ることができるなら、今回会場に来て下さった方々でもそうするのではないでしょうか。ビデオで流すことができれば、年齢や健康状態、住んでいる場所に関わりなく見てもらえるチャンスがあります(膨大な数のビデオの中からどうやって探してもらうのかはさらに問題ですが)。先にも書きましたが、画像や映像で見るのと実物を見ることとは別物ですが、見る見ないでいえば、いずれにせよ見てもらう方がいいに決まっています。若い人たちはとっくの昔にそう考え、あらゆるものをそうした媒体に載せて発信しています。わたしたち(だけでなく多くの)の既存の展覧会は遅れ過ぎているのです。

晨春会はなぜそんなに遅れているのでしょうか。ひとことでいえば、若い人がメンバーにいないからです。なぜメンバーにならないのか、あるいはスカウトできないのか。若い人たちになぜ魅力がないのか。どうやったら魅力を作り出せるのか。そういったことをあまり考えてきませんでした。来年も晨春会展はやるつもりです。けれど5年先はあまり見えてきません。ここ数年同じことを考えているのですが、行動ができませんでした。来年の今頃も、また同じことを考えていなければいいなあ。—海へ行きたくなった。

晨春会展―2

Gold-medalist in Olympic 2021 ( oil on canvas)

晨春会展が始まり、初日、2日目と連続で会場当番をした。観客は閑散だが、わざわざこんな時期に来てくれるだけあって、ほとんどの人が熱心に見てくれる。ありがたいことだ。「何が何でも見たいと思った」という人は、朝から晩までコロナ、コロナでくさくさしていた気分がスカッとしたといって帰っていった。それこそわたしたちの望んでいたこと。

せっかくコロナを忘れに来たのに、消毒、来場者カードの記入など「また、コロナか」と腹を立てた人もいると聞いた。その人の気持ちもよく判る気がする。他のいろんなイベント会場でのコロナ対策を参考に、わたしたちもそれにかなり気を遣った。コロナそのものより、「対策をしていない!」と細かく糾弾する「自粛警察」の巡回の方が怖かったのが本音だが。日本にはこの手の「警察」がやたらと多い。このブログは10年前の東日本大震災の直後に始めたが、当時も「節電警察」という語が巷に聞かれ、そのことについて書いている。今とまったく変わるところがない。

午後4時を過ぎるとほとんど人は来ない。会場をぶらぶらしながら自分の絵をじっと見る。自分の絵の後ろにある、自分自身のの制作風景を見る。そして10年前、30年前の自分と数年後の自分の制作風景を重ねて見る。よく見れば、1枚の絵にはそういうことが描かれている。会場のどの作品もそんな風景を持っている。メンバーはほぼ一日中冗談しか言わないが、誰もがそれぞれの風景を自分自身と重ねて見ている。そういうメンバーでなければ35年も続くわけはない。この会は特別な会なのだ。

ワクチン接種が進めば、来年の今頃はコロナはもう記憶の彼方になるだろう。大震災の時の節電騒ぎをもうほとんど忘れているように。でも、本当はわたしたちは深いところで傷ついている。あの時も絵を描いたり、音楽や芝居をやっている場合かと世間には冷たい目で見られ、実際そのような仕打ちをされた。大衆とはそういうものだ。芸術はそういう大衆に、とりあえずお茶をどうぞ、という仕事だ。その一杯で心の変化が起こることもあるだろう。それが芸術だ、とも会場をぶらつきながら考える。