旧岩槻市内スケッチ

岩槻:鈴木酒造(銘柄:万両)
寿司デリバリーのある路地

今日は「青いカモメ絵画教室」で、久々のスケッチ会に20人ほどが参加した。現在はさいたま市になってしまった旧岩槻市内で。曇りまたは雨天の予想に反し、日傘をさして描くことになった。午前10時、岩槻人形博物館前での集合から午後3時(結局 5時までになってしまったが)の間、自由制作、自由解散。午後2時~3時の間だけ、集合場所でわたしが希望者に講評するという手はず。

パンフレットによると、岩槻は戦国時代の築城から明治の廃城まで、江戸時代には宿場町でもあった古くからの城下町。いわゆる天守閣のあるような城ではなく館(やかた)タイプだったようだ。近くを流れる元荒川(当時は荒川本流)から水を引き込み広大なお堀を巡らしていた(現在の城址公園)。武士だけでなく、武具や家具等の職人たちも周辺に多く住み、それが現在の「人形の町」として全国に知られる岩槻の土台になっているらしい。

スケッチブックを手に歩いてみると、ところどころに風情のある区画を見るが、城下町といった風情はほとんど感じない。それだけ発展したともとれるが、町の性格が質的に変化したのだろうとわたしには思える。特に古いものを描きたくて探すわけではないが、他所とは違うものを見つけようとすると、歴史的なものが対象になりやすいのはやむを得ない。明治4年創業という鈴木酒造を描いたスケッチは、そうした歴史ものの1枚。寿司デリバリーのバイクが並んだ1枚は、少し古びた町と、コロナ禍下の今とがドッキングしたスケッチになった(はじめにそういうことを狙ったわけではない。ふっと絵になる路地かなと感じたところにたまたま店舗があった)。

とても暑かったので、昼は博物館前のカフェで、冷えたタピオカミルクティーを飲みながら持参のおにぎりを食べた。午後のスケッチのあとのジェラートはブルーベリー。あとで聞いたら、鈴木酒造提供の「酒粕ジェラート」があったらしい。これは近日中に試食、報告せねばなるまい。

CGスケッチ

Apple on the note  CG

CGスケッチ、という単語があるかどうかは知らないが、ごく最近のわたしはなるべくCGでスケッチするよう意識している。鉛筆が紙にこすれていく手触り感など、ひどく官能的でついそちらを使いたくなるが、ぐっと踏みとどまる。

スケッチだから目の前には対象物がある。紙のスケッチブックと同じように描いていく。ペンとかブラシとかの選択肢がめちゃくちゃ広いが、使うのが何となく手触り感のあるブラシに偏りがちなのは、普段から実物をつかっているせいだろう。わたしはこれを経験からくる利点と考えるが、ある人はそれは欠点だという。実作の経験がCGでの可能性を逆に狭める。なるほど。

タブレットは確かに多機能で、きわめて便利であるが、一番の難点は小さいこと。1mサイズで描きたいときでも、せいぜい20㎝程度の中で描くしかない。拡大すればいくらでも大きく描けるとうたわれているが、具体的なサイズの違いは身体の使い方からして全く別次元の問題だ。たとえば大きな画面では立って描く。そして腕を大きく使って描くが、タブレットではそんなことはあり得ない。

けれど、その難点?こそ、タブレットのタブレットたる所以であるのだから、わたしにとっては甘辛い。そのうえ、紙のスケッチではあとでそれを写真やスキャンしてパソコンに取り込み加工してきたが、CGスケッチではそれが同時進行である。ひと手間もふた手間も短い。しかも完全にデータ化され、どのような媒体にも横展開が容易である。したがって使わないという選択はもったいなさ過ぎる。—でもなあ、紙に描くのが気持ちいいなら、それがいいんじゃないか—1枚より100枚、1万枚の方がいいと考えるのは、その方が「知識化」されやすいからだろう。芸術の秘密は、知識化されることでかえって失われるものもあるんじゃないか—悪魔がいつも耳元で囁く。

アクセント

「ラウンジ(習作)」    水彩F10+CG

絵は、絵画教室のある施設の一部がモチーフ。屋根からの明り取りにつけたパーゴラが、下の円柱に投げかけた影のかたちの面白さをテーマに試作してみた。

「ン十年間ずっと努力し続ける」なんてことはやったこともないし、わたしにできるとも思わないが、世の中にはちゃんとやる人がいる(少なくとも伝記の類を読めば)。そういう人はたいてい(様々な意味で)偉い人になっている。続けるだけで立派だと思うのに、結果まで残しちゃって、素直にすごいなと思う。

アクセントという語は、語学用語では「強調」という意味でも使われる。わたしは「強調」がちょっと得意?かもしれない。地道な努力は続けられないが、ときどき気の利いた猫パンチをちょっと見せるってやつ。「お調子モン」というほど鋭い即興力はないが、遅れ気味に人を笑わせるくらいのゆるいジャブで。

「人生にもアクセントが必要だ」とどこかで聞いたことがあるような気がする。この場合のアクセントとは「ハイライト」に近い意味だろう。一生のうちに何度か自分が目立つ瞬間があるといいな、ということだと解釈している。なるほどそうかも、とも思うが、どうやったらそういう瞬間を持てるようになるかって考えると、やっぱり「ン十年間・・・」に戻ってしまう。語学ではアクセントと似た意味の語に「ストレス」というのがあり、同じく「強調」と訳されるが、これとアクセントと入れ替えると「人生にはストレスが必要だ」ということで、わたしのようなナマケモノには絶望しかなくなってしまう。

円柱に落ちたパーゴラの影は太陽の動きとともにかたちを変え、太陽が雲に隠れれば一瞬で消える。ハイライトであり、一瞬のアクセントであり、いつでも見られるわけではないというストレスがある。見る側の心にもドラマが生まれる。