オーロラ

「オーロラ」  水彩 2021.2

モデルになってくれた人はいま大学4年生。4月から本当の意味での社会人になる。就職が決まってから、入社前の準備も入社後に求められる資格のための勉強もしながら、少しの不安と大きな(とは言わなかったが)希望のなかで一日一日を過ごしている、と話してくれた。

「きれいだなあ」と思う。顔はもちろんだが、若さと希望をもって今まさにこの瞬間を生きていること自体を、きれいだと思う。絵を描くことは、この「きれいさ」にいつも対面する歓(よろこ)びがある、ということでもある。誤解のないように早めに言っておくが、この歓びは「若さ」に直接対面することにもあるが、もう少し率直に言えば「今、この瞬間を生きていること」、そしてその「充足感」に触れることにある。
 それは若い人に限らないし、人間にも限らない。動物であろうと植物であろうと、この瞬間に生きていることの充足感が生きていることの内実だ(わたし自身の感覚で言えば、それが石ころであろうと「いま在ることの意味」はそれと大きくは変わらない)。そして、それが自然に外へ放射するエネルギー(の大きさ)、それに触れるとき、その時間・空間を「きれい」だとわたしは感じる。それが(描く)わたし自身をも変える力になり、それが「描きたいこと」の中身だろうと思う。描くことで、わたし自身も生まれ変わっていく感覚がある。

このスケッチにそれが感じられるだろうか。描いている間は、無心にかたちや明暗、色彩だけを追いかけているつもりだが、五感(無意識)はそれ以外のことも画面に現わそうとしてくれているだろうと、勝手に期待する。来年、あるいは数年後、実際に何をしているかは彼女自身にも今はわからない。就職は「はじめの一歩」に過ぎず、すでに踏み出した。「二歩目」は彼女自身が決める。どうか、すべての人が自分自身のための一歩目、二歩目をしっかり踏み出してほしいと願うばかり。

最近はパソコンで絵を描く練習ばかりで、実際の材料で描くことがおろそかになっていた。久しぶりに実材で描くと、やはりパソコンに向かっているときとは違う自分を感じる。紙から、鉛筆から、水から、筆から、パソコンにはない手応えが伝わってくる。「その手触りだって、すでにパソコンで実現できる」のだそうだが、幸か不幸か、現在のわたしにはパソコンと実材の二つの次元がないと、それぞれの良さを味わうことができない。これを不便と思うか選択肢と感じるかはわたし次第。

素顔のわたし②-少年 T

チューリップ (CG)

少年 T は臆病ではあったが、同時に残酷でもあった。友達と遊ぶときは少し気後れして後ろでもじもじすることもあったが、一人になると大胆になり、生き物を殺すことも案外平気だった。
 彼の獲物の多くは小動物、いちばん多いのはカエルだった。雪が解けると、どこからともなくあちこちにカエルがモソモソとうごめいてくる。それを手製の弓で射るのである。矢はススキの茎で、周りにいくらでもあった。それをナイフで鋭角に切り取り、緩んできた地面に突き刺すと茎のなかの空洞に泥が入り、先端部だけ適当に重くなる。矢は先が重くないとうまく飛ばないのだ。

不思議なことに、カエルを殺しているという意識は、彼の中に全然浮かばなかった。むしろ正確に矢を射ることだけに意識が集中していた。カエルには恐ろしい敵だが、彼にとってはカエルは動きの遅いただの標的に過ぎなかった。しかもそれは彼だけの遊びではなかった。友達もみな自分で作った弓を持っていて、同じようにカエルを練習台に、熱心に弓の腕を競い合っていたのだった。やがて暖かくなり、カエルの声が田んぼから聞こえるころには、弓のことも射られたカエルのこともきれいさっぱり忘れて、小魚を追うのに夢中になった。
 小魚もまた彼の遊び道具の一つに過ぎず、彼にとってそれは「生き物」ではなく「さかな」という「動くモノ」であった。カエルと少し違うのは、時々は家に持ち帰って食べることもあることくらい。たいていはさかなを捕まえるところまでしか、彼の興味はなかった。捕まえたあと、その小魚をどうしたかさえ覚えてはいなかった。ただひたすら捕まえること。よりすばしこく、捕えることが難しければ難しいほど、小さなさかなたちは彼の興味を駆り立てた。捕まえた小魚の、手の中でぴちぴちと激しくくねる、くすぐったい感触は彼を有頂天にさせた。そしてぬめりの中に光る極小の鱗、うっすらと浮かび上がる斑点の美しさを、美しいという言葉さえ思い浮かべずに感じてもいた。

もう少し大きくなってからは、狙う獲物も大きくなった。もうカエルや小魚は卒業していた。素潜りと魚釣りの時期を過ぎ、アケビや山葡萄も終わって冬になると、T たちは野ウサギを狙うようになった。それは肉も毛皮も確かに有用であり、それを目的に彼の友人たちも雪の中を歩きまわっていたが、彼の興味の中心はやはりそれを捕まえるまでであった。獲物の生態を調べ、その能力を上回る方法で捕まえること。それが T の願いであり、理想だった。ほかの少年たちがウサギ狩りにも飽きて山へ行かなくなるころ、とうとう狐が彼の対象になった。

狐は、彼の相手にふさわしい警戒心と周到さ、そして知力とパワーを持っていた。すぐに彼は狐の能力に驚嘆し、一種の憧れにも近い感情を持ちはじめた。この美しくも優れた獲物を自分だけの力で捕らえたい、その一方でどうか自分が仕掛けた罠を凌ぎ、生き延びてほしい。そんな矛盾した感情を狐に対して持つようになっていった。
 「罠にかかったらどうしようか。」今度は彼も、捉えたあとのことを真剣に考えないわけにはいかなかった。いま彼の狙っているのは、足跡の大きさから考えて、ある程度の大物だと予想していた。おそらく中型の犬くらいはあるだろう。祖父の部屋の長押にぶら下がっていた、自分の身長ほどもある大きな狐の襟巻を彼は思い浮かべた。―あれより大きいかも―そいつが罠にかかったときの、死に物狂いの抵抗を T は想像した。「逃がしてやるのが一番危険で難しい。」彼は何度も頭の中で、うまく逃がしてやる方法をシミュレーションしてみたが、うまい方法が思いつかなかった。鋭い牙で噛まれ、自分も大怪我をする可能性の方が大きい。―手早く殺すしかないが、どうやって?
 獲物の逃げ場をせばめ、足場の悪いところに追い込んでいる以上、自分の足場の幅もぎりぎり、斜めでしかも凍っている。足が滑れば足元の深い淵の中へ自分が落ちてしまう。棍棒で殴り殺すにしても、すぐ頭上には細い枝が網の目のように絡み合っている。―棍棒を振り上げるスペースは無い―彼はその場面を脳の奥の方でゆっくり、精細なビデオで検証するように繰り返していた。

 少年 T のお話はここまで。わたしの夢の中で T は今でも時々獲物を追っているが、もう捕まえる気持ちはないらしい。けれど彼らを追い詰めるまでの緊張感と、それを逃れていく動物たちの本当のカッコよさに、いつまでも夢から覚めたくない思いがある―夢の覚め際にかならず T はそう言うのである。

 
 

素顔のわたし①

ある日の夢 (CG)

「新しい日常」という素敵な言葉が、「ウィズ・コロナ」というとんでもない形容語をくっつけられて、しかもあろうことか政治家に取られてしまった。まことにもったいない。でもそれならと、「これまでの日常」「ふつうの日常」はどうだったのか。足元をあらためて見直してみるのも悪くないような気がした。

そんなわけで、先ずは今のじぶんの素顔の簡単なスケッチをしてみることにした。まず外見。とりあえず年齢は100歳未満としておこう。今日(2021.2.5)現在、身長169cm、体重68.1kg、体脂肪率18.5%(軽肥満)で8年にわたる腰痛持ち。重い荷物はできるだけ持たない。頭のてっぺんは禿げ、眼は近眼、耳もかなり遠い。同年の友人と比べると10歳は年上に見えるらしい。どんなシルエットを想像しますか?杖を持った腰曲がりのお爺さん?

顔?素顔という以上、いちおう顔を描かなくっちゃ。―頭は割と小さい(たぶん脳も)が、手入れしない髪の毛が茫々(数は少ない)だから、自分の影を見るとモヘアのようにでっかく見えたりする。眼は糸と毛糸の中間くらいに細く(中学のころ、よく居眠りと間違えられた)、薄い眉毛と目尻は垂れ下がっている。鼻は高くも低くもない。鷲鼻でも尖ってもいない、要するに平均的な鼻。口ねえ。特別に大きく開くこともできないし、おちょぼ口でもないから、これも普通かな。ただ、母の写真を見て気づいたのは、結んだ口角の下にできる「しわ」のかたち。たしか子どものころにはなかったが、年を取ってから現れてくる、これは遺伝だろう。顔全体でいうと、中心線から端へ行くほど地球の重力が強く働いている。顎はとくに四角いわけでもないが、いまのイケメン風に細いこともない。でもまあ、ヒカクテキすんなりしている方ではないかな。無精ひげ以外に髭は生やしていない。歯はまあ健康だと、歯科医の歯っ欠け太鼓判がある。

趣味・・・いちおう俳句はやっているが、まだ「趣味です」といえるほどのめり込んではいない。趣味といえるにはもうちょっと深みにはまらないといえないような気がする。でも10年続けている。わたしの意欲作は句会ではほぼ0点になることが多い。気持ちが空回りするタイプの句なのですね。スポーツには最近縁がないが、若い頃は体を動かすのは大好きだったので今でも興味はある。陸上競技、野球、相撲、水泳、登山、スキーをはじめ、なんでも今でもやりたいと思う。まあ、見るのもやるのも好きだとだけ言っておこう。勉強はひとことで言って「好き」だが、「成果を求めないタイプ」(我ながら上手な言い方ができた)。努力とか根性とかが嫌いな言葉だと言えば、勉強・スポーツの到達度が想像できるはず。

ここまで書いて、これで素顔がスケッチできたかといえば、「わたしのスケッチ観」的には100点満点の3点、かな。一次資料を出しただけだから。