ちょっと練習して、すぐ凹む

「ロゴマークの練習」(Adobeチュートリアルを手本にやってみた)

「イラストレーター」という大きなアプリがある。すでにアプリの老舗といえるほどの歴史がある。イラストレーターというくらいだから、(人間の)イラストレーターにとって習得はほぼ必須なのだと聞いている。実はわたしも20年以上前に買った。難しすぎて何もできず、十年くらいほったらかして、ここ数年は年に一ヵ月だけ契約して、DMを作りに使うだけになっていた「絶壁のアプリ」。

それを昨日から再び始めた。昨年暮れに一年契約したから、もう3ヶ月も無駄に経った。決してサボってばかりいたわけでもなく、同時に新旧あわせて十数個のアプリを一度に購入したので手が回らないのだ。ipad Air 4というタブレットも買い、コロナを機会に半分は自分を変えるつもりで意気込んでみた。毎日朝からパソコン、タブレットをいじり、初めて見るアプリをいじり、「絶壁アプリ」のPhotoshopとIlustratorにもとうとう再挑戦。

やってみると、一つ覚えるのにも想定の数倍、数十倍の時間がかかる。たとえば上の写真のロゴマーク作りの練習課題にも、朝8時からほぼ丸一日。出来たのは午後11時だ。できる人なら10分もかかるまい。恥ずかしいが、それでもまあ普通らしい。ビデオを繰り返してもどうしても解らないところを、ご飯時とかに息子をつかまえて聞く。彼は数回画面をリピートさせるだけでスラスラと解く。モノの数分もかからない。説明を3回繰り返して10分経つと彼は去る。わたしは3回聞いても「・・・」だが、それをヒントにまた数時間粘る。ギブアップメールで写真を添付してまた尋ねる。律儀にメールを返してくれるのが申し訳ない。なんでこんなことやろうと考えてしまったのかと反芻しているうちに、何となく出来ちゃった・・・。

「絵が描けなくても生きていけるけど、パソコン(スマホ)ができないと買い物も病院にも(ごく近い将来)行けなくなるよ」と息子は言う。無人コンビニが実際に増えつつある実情を考えると、そういった世界への過渡期なんだなとは思う。でも、一様にずるずると流れるほど地球も平らではないぞ、とも思う。

わたしが画像・映像アプリを買い、その一つ一つを試している理由は、必ずしもそうした現実(かどうか)に対応しようとしているだけではない。既存の油絵、水彩画その他の限界を感じているからでもある。難しいし、(機材代を考えると決して安いとも言えない)コストがあっても、パソコン描画アプリは優れた画材だ。しかも日々進化しつづけている。好きでも嫌いでもそれは自由だが、無視はもうできないよ。

Happy Birthday to Me

Happy Birthday to 自分 (CG)

今日はオラの○○回目の誕生日だった。昨日までテンで頭になかったわ。「明日は誕生日だ」って言われて「そういや、そだねぇ」って。何か美味いもんでも食うかって言われたばって、ナーンも思いつかながったじゃ。

何十年も、飯より旨い絵を食ってきたと思ってるし、普段だって特にまずいもん食ってるとも思ってねえから、何も要らねえと言ったが、人の誕生日ついでに、何か自分たちの食いたいもんでも買えば、ということで夕方スーパーについていった。思ったより人が多くてびっくりこいたが、つい気をゆるしてワイン1本とソーセージを1本買ってしまった。あと、ちょっと珍しいカップラーメンも一つ。これは明日の昼用。

今日は苦手なアプリの練習。午前中だけにして午後からキャンバスに取っかかるつもりだったが、いやー、難しくって難しくって結局一日かかってしまったじゃ。動画で見れば1秒もかからないことに、1時間以上かかっても出来ねえのさ、まいったよ。たまたまうまぐいっても、その理由がわがんねえもんだから、何十回もやりなおしてよ。うまぐ行ぐ時と、ダメな時の違いみたいなもん、まだピンと来ねえんだよね。

ンでもまあ気を取り直して、見よう見まねでバースデーカードのようなモンを作ってみたじゃ。これよ。誕生日だってんで浮かれて作ったわけでもないけど、練習しなくちゃいけねえもんで今日の課題にしてみだっつーわけさ。明日も練習だよ。

「嫌なものは見たくない」けど

無題 (CG)

嫌なものは(わたし自身を含め)誰でも見たくない。その方が(たぶん)精神衛生上も良いような気がする。一方で、「見たくはないが眼を背けてはいけないもの」もあるような気もして、単純に「嫌なものは見ない」と強気になるには、尻のあたりがなんとなくこそばゆい。

見ないで済むものは、個人個人の小さな癖とか趣味とか、だろうか。もし他人のそれであれば、見ても黙っているか肯定するのがよい。余計な口出しは無用である。見たくはないが見るべきもの、それは(おそらく)誰にもたくさんある。たとえば、片づけなくちゃと思いながら、さらにシッチャカメッチャカになっていく自分の部屋。もう見たくない、と思うけれど、そこに暮らしている以上見ないわけにはいかない。自分への幻滅感と、明日か明後日にはやろう、という微かな意志。ああ、暮らしていくってそういうことなんだと、どっと生活感に押しつぶされてシニタクナッテしまう。

大好きなはずの、絵を描くことだってそうなのだ。頼まれて描いているわけでもないのに、絵の具が乾き、その上に埃が被ってくると、「描かなくちゃ」となぜか罪悪感が湧いてくる。あれもあり、これもあったから描く時間がなかったんだ、と自分で自分に弁解すること自体がなんだか寂しい。「なんでこうなるの」と、でも自分を責めるのはやめよう。

「日なたの方を見る」という表現がある。何かに忙しくしていた自分は、その分何か、誰かの助けになっていたはずだ。そこを見ようよ、という視点の転換だ。いい言葉だと思う。そして埃の下から「あれっ?ここにこんないい絵があるじゃない?」と見つけ出し、「なんだ、わたしの絵じゃないか」とにんまりし、「ちょっとここはこのままじゃまずいんじゃないかな」とすこし描き足す。

蛇足だが、政治家にこんな見方をする人が「圧倒的に」多いように感じるが、それは逆だと思う。政治家が、自分や自分のやったことを「日なた」に見るようではおしまいだ。そして、それを「明るくていい人」と思うようでは、自分の脳みそが干からびかけているのでは、と少しは心配してみた方がよさそうだ。