
「季語」といえば俳句。趣味の俳句を始めてから、100回目の句会をやったことはつい最近書いた。最初はまず季語を覚えること、一句の中に季語を重ねないようにとか、とにかく十七文字という形式に合わせるだけで精一杯だった。途中から季語があると楽だなあと感じ始め、ごく最近ではそもそも季語があるのがいけない、などとド素人の遊びのくせに、歴史ある俳句の世界に(心の中で)イチャモンつけたりすることもある。
「季語を活かす」ってどういうことだろうか。中学生レベルの常識でいうと、「季語」にはそれぞれの季語が持たされている情感というものがある。例えば「小春・小春日和」は初冬(11月頃)の、やや季節に外れた暖かさをいう(気象用語でもある)のだが、その情感というのは「小さな意外性。冬という季節の中に、ポッと与えられた、小さな春のような感じ」である。だから、雰囲気としては日常の中の機微を詠む際に使うとぴったりくる。そのように使うとき「季語を活かす」という(らしい)。
だから、交通事故などの悲惨な情景や不安さ、などをいう時に使ってはいけない、ということになる。そうすると当然だが、組み合わせに選ぶ単語やモチーフもそれにふさわしいものをものを選ばざるを得ず、その結果として誰が作っても似たような句ばっかりになりがちだ。季語とぴったり情感を合わせながら、なおかつ新鮮さ、新しさを生み出すのは並大抵のことではない。専門の俳人ではない、ほとんどの人は楽な方に流れやすいのが自然だろうから、どうしたって凡句の山のひとかけらになるのがせいぜいだ。
句を作ってみればわかるが、季語はとても便利で、しかも実によくできている。それを入れればすぐ俳句の格好がつく「最高の出汁」なのだ。だから100%の人がそれに頼ってしまう。頼ってもいいが、そういう「モノの見方」をするようになってしまう。発見も発想も無くても、モチーフとの組み合わせさえ調和的なら、一見上手な句ができてしまう。季語を活かすつもりが、季語に巻かれてしまうのである。それはマズい。絵に例えると、「富士山に鶴」の絵になってしまう。それはマズいのではないか、と凡句の言い訳に愚痴っている。