「季語を生かす」は ダメ?

「Apple-rainbow」 2020 Arcid,oil on canvas

「季語」といえば俳句。趣味の俳句を始めてから、100回目の句会をやったことはつい最近書いた。最初はまず季語を覚えること、一句の中に季語を重ねないようにとか、とにかく十七文字という形式に合わせるだけで精一杯だった。途中から季語があると楽だなあと感じ始め、ごく最近ではそもそも季語があるのがいけない、などとド素人の遊びのくせに、歴史ある俳句の世界に(心の中で)イチャモンつけたりすることもある。

「季語を活かす」ってどういうことだろうか。中学生レベルの常識でいうと、「季語」にはそれぞれの季語が持たされている情感というものがある。例えば「小春・小春日和」は初冬(11月頃)の、やや季節に外れた暖かさをいう(気象用語でもある)のだが、その情感というのは「小さな意外性。冬という季節の中に、ポッと与えられた、小さな春のような感じ」である。だから、雰囲気としては日常の中の機微を詠む際に使うとぴったりくる。そのように使うとき「季語を活かす」という(らしい)。

だから、交通事故などの悲惨な情景や不安さ、などをいう時に使ってはいけない、ということになる。そうすると当然だが、組み合わせに選ぶ単語やモチーフもそれにふさわしいものをものを選ばざるを得ず、その結果として誰が作っても似たような句ばっかりになりがちだ。季語とぴったり情感を合わせながら、なおかつ新鮮さ、新しさを生み出すのは並大抵のことではない。専門の俳人ではない、ほとんどの人は楽な方に流れやすいのが自然だろうから、どうしたって凡句の山のひとかけらになるのがせいぜいだ。

句を作ってみればわかるが、季語はとても便利で、しかも実によくできている。それを入れればすぐ俳句の格好がつく「最高の出汁」なのだ。だから100%の人がそれに頼ってしまう。頼ってもいいが、そういう「モノの見方」をするようになってしまう。発見も発想も無くても、モチーフとの組み合わせさえ調和的なら、一見上手な句ができてしまう。季語を活かすつもりが、季語に巻かれてしまうのである。それはマズい。絵に例えると、「富士山に鶴」の絵になってしまう。それはマズいのではないか、と凡句の言い訳に愚痴っている。

旅行したいな

「Apple trip」 2020/02/02 Oil on canvas F6

しばらく旅行していない。「移動」と旅行とは違う。自分勝手な定義だが、旅行とは何がしか非日常的で、少しばかり風景や文化の違いを感じられる場所に行くこと。通過もだめ。そして必ずそこで当地のものを食べることという条件が重なってくる。さらに一泊以上すれば旅行感はグッと上昇する。

現実の時空の中での旅行だけでなく、空想の中の旅行もしなくなっているかも知れない。忙しいというより、ちょっとした冒険心も無くなっているんだな、きっと。チャレンジャー精神が枯れているんだ。あ〜あ。

学生の頃は、ザック(リュック)と寝袋一つあればどこへでも行けるじゃないかと思っていたし、実際そんな格好で一月以上も旅行できた。行けばなんとかなるといつも思っていたし、旅行先でたまたま隣のホームに入ってきた列車の行先を見て、急に心がそそられて逆方向の列車に飛び乗ったり、多少困ることがあってもそれ自体を楽しんでいた。それは自分の小さな冒険心だけでなく、多少の無茶を多めに見てくれる、広やかな心が日本中だけでなく世界中のどこにでもあったからだ、とも思う。その人情(必ずしも温かいとは限らないにしても)に触れることが、旅行でなくてはできないことだったのかも知れない。

旅行しよう。とりあえず現実でも空想でもいいから、まず一歩。チャレンジは決心が要るから、とりあえず決心の不要な好奇心を膨らますことから。触れてみる。やってみる。もう少しだけ遊び心を取り戻したい、と思うことしきり。

「探しもの」–まだまだ探す気ですか

「Apple-jeans」     2020  Tempera on canvas  F6

井上陽水の「探しものは何ですか」ではないが、まだまだ探す気ですか、の心境を味わい続けている。見つかるはずもない「精神的な」探し物ではなく、物理的な「電源ケーブル」を、捜索を諦めてネットで新品を購入するか、まだまだ探す気ですか、の二択というわびしい話。

今日はある展覧会の、関係者だけのオープニング・パーティが午後4時から。私も出品していて、行くつもりではいたのだが、朝、昨日からの頭痛が少しあり、「風邪気味かな?」と思ったので遠慮することにした。そして、雨戸の修理。できなかった。それからケーブル探し。何かを探すということは、結局は片付けをすることにもなり、大規模な掃除に。でも、見つからない。その間に昼食を摂り、魚だったので、一部を時々庭に寝そべりにくる猫(首輪をつけている)にやり、食うところを見たりしながらケーブルを探す。

実は、もう3日も探し続けている。探す範囲は限定されている(それが思い込みなのかも)ので、一箇所あたりの捜索時間は相当になるはずだ。自分の顔のホクロ探しよりも慎重(なはず)だ。半年前、そこに置いた時点から、「ここはマズいかも」との不安だけがズバリ的中した感じ。

そろそろ諦めて新品を買うか、まだ探すかの選択が迫られてくるタイミングだ。嫌だなー、何でこんな時に雨戸が壊れなくちゃならないの!そういえば、インチサイズのマットがたくさん余っていたなあ–とか、何でこんな時に思いついちゃうんだろうかな。