きれいで、気持ちのいい絵って、ダメなんですか? 2

「Apple のある風景−2」  2019

前回、ちょっと説明しきれないところがあり、補足します。本来は「きれい、気持ちいい」の中身を考えなければならないはずですが、字数の関係であえて触れませんでした。

前回の内容を一言で言うと、鑑賞者の立場での「きれい、気持ちいい」と、表現する立場からのそれとは同じものではない、ということでした。けれど、多くの人は鑑賞者的な立場からのまま「きれいで気持ちいい」絵を描こうとします。ここでは鑑賞者と表現者の立場が一致しています。よく聞く「飾れるような絵を描きたい」という言葉が、そのことを示しているように思います。自分のことを振り返ってみても、確かにそうだったと思います。一方で「好きなように描けばいいんだよ」とも言います(私も)。そうすると「きれいで気持ちいい絵」が好きなら、そう描けばいいんじゃない?ということになりますね。

論理的にはそうなります。また実際にも「好きに描けばいい」のだし、そういう人が多数ならいずれ(世界も)そうなるに決まっています。なので、ここまで来ると、前回一般論であるかのように述べたことが、むしろ私自身の「偏った」考え方だったということになるかも知れません。なるほど、考えてみるとそうかも知れません。私は多数決が必ずしも正しいなどとは思いませんが、現時点では鑑賞者の視点と表現者の視点が異なる(べき)という人の方が多いのではないか、そしてそれは大事な感覚ではないかと感じています。

ここまで来ると、どうしても「きれいで気持ちいい」の中身を一度問わなくてはならないような気持になります。少し急いでしまいますが、私はこれを「迎合」と「自然」とに区別できたら良いと思いますが、それを上手に区別する方法を知りません(単語が適切でないかも知れません。ご指摘下さい)。「迎合」は一つの歴史観、「自然」は一つの哲学と言っていいかも知れませんが、きっちり分けることは至難です。哲学者ならここを疎かにはしないでしょうが、私には難しい問題です。国語辞典とは違い、私の目の前の、間近に制作する「○○さん」に直結する意味でなければなりません。そのうえで「迎合」とは何かといえば、○○さんにとっては自分の育ってきた環境に自然に「なじむ」ことであるかも知れませんし、分類の仕方によっては単に「適応力」と同一視されてしまうかも知れません。「自然」もまた、「生まれたまま」ということは現実的にはあり得ませんので、稀有な自然環境の良い場所で暮らすか、ある社会的試練を経たのちの、「ありのままの自分」という一つの境地にたどり着いた「自然」なのかも知れません。そこでの個別性を、細かくより分けて言葉を定義していくことは困難ですが - それでも俯瞰的に見れば、一般的な「きれいで気持いい」が、幾らかはこれまでの(自然的・人間的)環境に対して迎合的なのかなと、偏見を承知の上で感じます。同じ水平線上で、自然とは(ある意味逆に不自然とも言えますが)より多く、自分の身についた迎合性を削ぎ落とした自分自身のこと(人によりけり)と定義します(人生の上で身についた「迎合性を削ぎ落とす」なんて、言葉の上でしかできないような気もしますけど)。

そのうえで、「きれいで、気持ちいい」絵を描くのは悪いことなのか、という質問に改めて向かい合ってみたいと思います。①「きれいで、気持ちいい」は初心者の自然な気持 ②「きれいで、気持いい」の意味を立ち止まって考える ③それが自分自身の「現在・現実」に合っているならば、「善」と信じて迷わず進む。  きっと、私もそうしてきたのだと思います。

きれいで、気持ちのいい絵って、ダメなんですか?

「Apple のある風景」  2019

「きれいで、気持ちの良い絵って、悪い絵なんですか?」と時々聞かれる。もちろん、そんなことはない。質問者は絵を描いている人。自分できれいだなと思うものを、気持ちよく描くと、先生や仲間に、そんなの面白くないと言われることに、時々疑問を感じつつ描いている。ある日とうとう聞いてみた。

そんな人はきっとたくさんいるはず。結論はすでに述べた「そんなことはない」。それなら「そんなの面白くない」という人が間違っているのかといえば、そんなこともない。それは、描く側か見る側かの「立場」によって見方が変わる、ということに関わる問題でもありそうだ。

「創作する」というのは、簡単にいえば「新しいこと(もの)を作り出すこと」。ふつう絵を描く場合、誰かのコピーをしているのでない限り、自分の見たもの、感じたものをとりあえず真っ白のキャンバスに、自分勝手に描く(たとえ出来が不満足でも)。一方「鑑賞」とはまず「観る」ということだが、嫌いな絵はとばしても、好きな絵はゆっくり心ゆくまで楽しむ。それが基本的な鑑賞の態度だ。そこでは「新しさ」や「自分勝手」など探し出す必要もない。ただ好き好きに従って味わえばそれでよい。

そこで、最初の質問はこう言い換えられるかも知れない。「きれいで、気持ちのいい絵を見ました。私もあんなふうに描きたいのですが、それではだめなんでしょうか?」。今度はこう答えよう。「だめです。それでは創作になりません」。気持ちの良し悪しではなく、「そんな風に」がダメなのである。少なくとも「自分流」でなくてはダメなのである(実際はとても難しいことだが)。厳しいといえば厳しい。でも助け舟。自分流を押し通せば、きっと楽チンで気持ちいい。矛盾することではないのだ、たぶん。

チャドクガ(茶毒蛾)退治は冬のうち

「Seed(種)」2019 F10 tempera on canvas

1月5日。どうしても気にかかって仕方なかった、チャドクガの卵探しに再々チャレンジ。昨年の大食害からかろうじて残った2本の椿とサザンカの葉裏から、とうとう見つけた!それも15個も。一つの卵塊から平均100匹ほど幼虫に孵化するというから、1500匹近くを事前に退治したことになる。大戦果。

アメリカのトランプ氏がイランの現役将軍を暗殺したのとは意味が違う。彼はスズメバチの巣を叩く、そのあとのことまで考えないただのわんぱく小僧だ。スズメバチを、単に人間を刺す悪い奴だ、という思い込みしかないガキ。でも、それを「ゼッタイ応援するよーっ」なんて、ゴルフクラブを掲げてバンザイするバカが、何人もいるから困ったもの。こういう輩は地球上からスズメバチや、(チャドクガが発生しないように)椿の仲間の木を根こそぎ絶滅させれば解決だと考えるような野蛮人だと言って良い。

話を戻す。チャドクガの卵はネットで検索すると出てくる写真のまんま。ただ、実際に見ると意外に小さく(直径7、8ミリ〜1センチほど)、つい見過ごしてしまう。この枝、この葉はもう何度も見た思っても、さらになお数回見返してやっと見つける、という感じ。ウコン色の卵塊を見つけても、間違っても素手で触ったりしてはいけない。毒毛針でしっかり覆われているから。

チャドクガの卵は簡単に見つかりません。けれど、1個見つけると2個目、3個目は少しだけ慣れて、見つけやすくなる。考えてみれば、チャドクガだって生物淘汰の歴史を生き残ってきた一種の「猛者」。種の存続には最も重要な卵を、簡単に見つけられ、抹殺されない方法を編み出してきたからこそ現代まで生き残ってきたはず。「種の保存」という大事業の陰には、実に様々な仕掛けが隠されているということを学ぶ貴重な時間にもなった。