
「虫の目」とは人が見逃してしまいそうな、あるいは無視してしまいそうな、一見雑多な現象に見える事柄の中に、普遍的な価値や真実を探究する目や姿勢のこと。「鳥の目」とは高い、広いところから、小さな目先の木や、水溜りに捉われず、遠くの大きな森や広い沼や湖を見つけるように、ものの重要性や緊急性などを比較できる目の喩えである。
一人の人間にとって、どちらも一定程度必要であるにも拘らず、ほとんどの人はどちらか一方に偏りがちであるに違いない。けれども、それで困るかと言えば、案外に困った風にも見えない。それどころか、むしろ一方を非難する場合さえ、決して少なくはなさそうだ。
常識的に考えれば、どちらもほどほどという中間派が最大数になりそうだが、果たしてそれでいいだろうか。「目」という同じ語に騙されて、まっすぐな線の両端のように同じ次元に置いてしまっているが、そもそも比べられるものなのか。ちなみに、数学的に言えば線というものには端がない。いわゆる極端がない以上、どこをとっても中間としか言いようがない。
話を戻す。大雑把に言って、政治家に必要なのはどちらかと言えば鳥の目ではないか。「大所高所の見地から」という言葉は政治家の大好きな言葉の一つだが、昨今は大小、高低さえわかるかどうかも怪しいものだ。そのうえ、多くの人が見えているものにもまた気づかない。こういう、退化した目を持つ動物を何と呼べばいいのだろうか。決してモグラなどと言ってはいけない。それではモグラが可哀想だ。