自由研究って…

△と◻︎ 習作

自由研究は夏恒例の子どもいじめ(言い過ぎだが)イベントだが、その是非は別に置くとして、最近は親が手伝うどころか、地域ぐるみ、近隣の大学、国の科学研究施設、観光地まで「自由研究に役立てて欲しい」と、それぞれ別の目的を隠しながらアピール合戦の様相だ。

いわば国ぐるみと言っていいほどの、この「自由研究」とは何なのだろうか。子どもを全員将来の研究者にしようとでもいうのだろうか。それにしてはやがて進学する大学の方がどうにもうすら寒い。日本を代表する東大などでは研究不正があとをたたず、世界の中での信頼性も急激に落下しているようだ。

優れた研究者が出てこそ、子どもたちも憧れる。終戦関連の記事、ドキュメンタリーでマスコミも賑やかだったが、そこで印象鮮やかだったのは、イケイケどんどんで戦争への意識を煽り、その行き着く先の軍や政治に関わる人々に、目的も手段も十分に思考を巡らせた跡がないことだった。目先の技術、工夫には優れたものがあっても、なぜ?を先へ先へと問い詰めていく、科学的思考が不思議なほど感じられないことだった。

すべての子どもが自由研究をするって、一種異様な感じだ。戦前の軍国少年育成と、ぴったり重なって、恐ろしげだ。