文化は広告ではない

デッサン

古池やかわずとびこむ水のをと       芭蕉

俳句という言葉を知らない人でも、これは聞いたことがあるだろうと思われるほど有名な「俳句」。これを例えば英語、フランス語、アラビア語、スワヒリ語にしたらどうなるだろうか?

俳句協会が俳句を世界遺産申請中だそうだ。反対などしない。けれど、俳句が世界に広まって嬉しいとも思わない。「文化」の二律背反的な宿命?が、ここにも必ず現れると思うからだ。

文化にも生きているものと、死んだ文化がある。生きている文化、例えば日本料理はごく最近世界文化遺産になった。嬉しいことだが、その時点から日本料理は日本料理でなくなったともいえる。これが日本料理だという原点など、誰も確認できないからである。基準点のないものはまるで風のように頼りなく、受け取り方は人様々だ。けれど風であるうちはまだ良い。いずれ風が風速だけで判断されるようになるように、本体である「日本」料理も「ケバい」または反動的に「貧弱な」日本料理になるにきまっている。もう誰にも止めることなどできない。

けれど「日本料理」という名前だけは残るだろう。「遺産」とはそういうものであると思えば、腹を立てるまでもない。俳句も同様の道を辿ることは簡単に想像できる。そのうち、英語で書かないと俳句は読まれなくなる。英語に翻訳できない俳句は俳句ではない、となりかねない、という前に、既に英語以外で俳句を読んだことがない人の方が、「俳句人口?」が多いのをご存知だろうか。

ルピナス 3

ルピナス 3

やっとイメージに合う感じになってきた。ここまで5枚ほどルピナスにかかった。要は観察が足りなかった。

植物の葉や枝の出方、有名なところではパイナップルの鱗状の皮それぞれの位置などに一定の数列(この場合はフィボナッチ数列)が関係していることが知られている。観察していると、やはりそれに関連した放物線が見えてきた。

考えてみると、根から吸い上げた水を花(つまりは種)に分配するには、螺旋階段方式が最も効率的なのは明らかだ。生き物は全て賢い。それにもっと早く気づかなければならなかった。