今さら…

    クリスマス・ローズ

南スーダン派遣の自衛隊日報を巡って。一言で言えば、現地隊員によるナマの貴重な記録だから廃棄など考えられない。が、論議を呼びそうだから廃棄ということで隠してしまった。いったん「廃棄」したと言った以上、「今さらありました」とは出せなかった、という。

何が大事で、何が小さいことなのかは人それぞれの立場や考え方によっても違う。けれど「記録」の価値が無になることはない、という常識が共有されていないことになる。

文化の本質は、固有の知識、経験、思想を公開、常識化することにある。少なくとも人間の歴史はそういう方向に進んできた。自分に都合の悪い記録を廃棄したいのは、都合のいい記録だけ取っておきたい気持と同じもので、誰の心にもある。が、その痛みを押して文化は進んできた。

錯覚の効用

クリスマス・ローズ

「錯覚」というのは、ともすればマイナスイメージのある語だが、脳科学的にはずっと積極的な意味があるようだ。

「自信」もその一つ。単なる錯覚の「一症状?」。逆に言えば「自信喪失」も同じことの表と裏。いや、表とか裏とかの区別自体も錯覚かも知れない。

無限の可能性を信じつつ、コントロールを超えたアクション(絵ならば手の動き?)が重なる時、そこに「自由」が生まれる、ようです。どちらも簡単ではなさそうですが、両方とも錯覚だと思えば案外できるのかも。

水性と水彩

クリスマス・ローズ

水彩でできることが、「水性絵の具」ではできない。絵の具というのは、顔料+糊のことだと考えてよく、顔料は大体共通しているので、「糊」の違いが「できる」「できない」の差になっているのだろう。

しかし何とか、この水彩の面白さ、一回性の緊張感を他の水性絵の具でも、できるようになりたいものだ。