枝垂桜コロナで数年見られなかったがことしは見れるかな

桜の話題が広がり始めたそれにしても本当にこんなに日本人は桜と紅葉が好きなのだろうかウクライナ戦争があろうとトルコ・シリアで大地震があろうとコロナがあろうとマイナンバーですったもんだしようと結局桜の話題に流されてしまうおそらくこの国の将来がどうなるかより、When、誰とどこの桜を見に出かけるかの方が重大事なのに違いない

桜さえ咲いていればこの世は天国。12年前の東日本大震災の直後はちょうど桜の時期に重なったそれでずいぶん癒されたという人もいるだろうけれどそれで災害の悲惨さがずっと軽くなってしまったという面もありそうだ桜は日本人にとって苦しいこと嫌なことを忘れさせてくれる巨大な“免罪符”のように働く力を持っているらしい

桜を少し皮肉っぽく言ってしまったが桜を見るとわたしもやはり気持ちが浮き浮きする桜の絵を子どもの頃は何度も描いた気はするが本格的に絵を描くようになってからはほとんどまともに描いた記憶がないせいぜいスケッチまであからさまな「天下泰平」賛歌か皮肉屋と見られるかのどちらかにまとめられそうなのが嫌だというのもあるが造形的要素としても何となく物足りない感じがするからでもあった。That point、日本画家は皆せっせと桜を描く桜は日本人にとってすでに象徴でもあるから写実性よりも象徴性に重きのある日本画にはぴったりの画題だということは頷ける

桜をことしは描いてみようと思い立った造形的に弱い感じというのはわたしが造形化できないということであり別に桜の方に罪があるわけではないいつもどんなものでも絵になるはずだと考え主張してているのだから桜を避けていたのがむしろ不思議な気さえしてきた

日なたの方を見る

以前にも全く同じタイトルの記事を書いた記憶があるがあえてチェックしない仮に内容も似たり寄ったりだとしてもそれを再び書く意味があると感じたから書くのだろうから―Look sunny side (ルック・サニーサイド)っていい言葉だなと思う

「物事には表と裏がある」というと「真実っぽい」が真実かどうかなど広く細かく深くゆっくり見ないと本当はわからないそのうえ「真実」という定義そのものもおそらくはなく一筋縄ではくくれない不分明な広がりを持っている―「表と裏はくっついている」という慎重なものの見方はたぶん人間がこの複雑な社会生活を営む上でのひとつのテクニックとしても欠かせないものなのだろう

「日なたの方を見る」人を見るならその人の長所を自分を見るなら得意なところを制度や仕組みを見るならまだ足りないところだけを見るより達成された部分を(ちょっと大きめに?)見る―一見すると体制側行政側の好むように見るという迎合的姿勢ともとられかねないが必ずしもそういう政治的視点に留まらない人間(心理)的な視線という温度感がそこにはあるような気がする「絵」でいうならば欠点をあげつらい仮に欠点をゼロにできたとしてもその絵の魅力が倍増するわけではないそんな小さな欠点には目をつぶってでもその人固有の「良いもの」を伸ばすことが本人だけでなくもっと広がりのある大きな価値を生み出せると日々感じているという意味だ

「日なたの方を見る」は伝統的・保守的な見方かもしれない「物事を(自分に)都合よく解釈する」という批判も免れ得ない。Still、「あなたのやっていることには意味があります」というメッセージは明るく前向きで何より「生き物はそう(希望的に?)生きてきた」に違いないと思っているんですわたしは生命科学者ではありませんが

木も見て森も見る

3月7日22時30分アップロードしました

「木を見て森を見ず」という格言がある瑣末なところにばかり注意を払わず全体を見通す目を失わないようにしなさいというほどの意味だが意味は分かっても具体的にそれが木であるどころか葉なのか枝なのかはたまた一粒の花粉なのかさえ分からなくなるのがたとえばパソコンで作業をしているとき

パソコン上で一枚の写真を拡大修整し色を微妙に変えるその作業の中にもさらに細かな作業がある文字を入れるにもどんなフォント(文字のデザイン)を使うか文字と文字の間隔や行の空きをどうするか文字に境界線を入れるか入れないか文字の色をどうするかなどここにもさらに細かい作業がある瑣末?な作業がどんどん増えていく

 そのような枝から葉葉から葉脈と分かれていく流れのなかで翻って逆方向の木全体の方を向きさらにその木の向こう向こうへと続く森を見るというのはかなり難しい一方向でさえ自分の位置を見失いそうになるほど何層にも重なり横にもいろんなアプリが並列する構造しかもそれはまだ解りやすい「作業」の例に限っての話
「物事は上流から見よ」とも言われてきたまさに樹形図のように森から木木から枝葉へと見ていきなさいということだと解釈してきたが学校教育はほぼ葉っぱから森を見るそれとは間逆の方向だろうと思う

 いつどの時点で視点を逆転させる教育が行われるのだろうか今の日本で言えば大学の卒業研究または大学院レベルでやっとそういう見方を訓練するのではないだろうかそれ以外はすべて「個人の勉強」に委ねられてきたような気がするそれも受験勉強ではなく一つのものごとに対する深い興味と時間に縛られない自由な勉強といい仲間のいる環境があれば「木も見て森も見る」ために必要な環境はますます遠くに離れていくように感じる日々