自動車を描く

池のある風景 水彩/コットン紙 F4
資料写真ふつうは自動車の方を省略してしまいがちですね

テーマは「駐車場の車」ですあなたは車を描くのが好きですか?わたしは必要がない限り描かずに済まそうとしてしまいます小さな子どもはたいてい自動車を描きたがりよく観察していてそして誰もが得意にしています

大人にとっても自動車を見ない日は一日もなくまた毎日のように利用もしているのに案外描けないものの代表格ではないでしょうか。of course、ロゴマークのような“記号としての自動車”ではなくスケッチとか絵画イラストとしてのそれのことですが

そういう意識が常にあるので駐車場の車の列とかフロントガラスに映りこむ木の写真とかを撮ることが少なくありませんいつか描くときがあると思っているからですがその割にはこれまでどことなく避けていたようにも感じあらためて練習してみることにしました

描き終わったあとで見るとこの絵の中の駐車場のインパクトは当初思っていたより強く「駐車場の見える風景」とした方が適切なほどですやっぱり車が描けるとテーマの選択肢が広がると感じましたこういう車列?の風景をもう数点サイズも少し大きくして練習してみようと思っていますコットン紙を久しぶりに使いましたがテーマに適切な選択だったかどうかは微妙なところです

切り口

「指を組む男」テンペラ(2回目の登場) もう12年も前の作品ですこの背景もう再現できません

―あなたは今日何をしていますかまたはしましたか?―
 何でもない質問のようですが時にはされたくない質問ですよね思わず“ボーっとしてちゃ悪いんかい!”と投げ返したくなる時もあるんじゃないでしょうか「今日の予定はもうありません」もスマートフォンに表示されるたびに「だからなに?」でした

なぜだかわたしはものの「切り口」を見るのが好きなようですリンゴを齧ると皮の切り口から中身が見えますねそういう状況状態を見るのが好きなんです何時間も見ていて飽きないのです。But、それじゃ食事が進まないので現実にはむしゃむしゃと食べてしまうのですが

彫刻家が木材を鑿で掬うときの鑿の跡鑿が木材に入り込む角度早さ刃先の鋭さと木材の柔らかさとの絶妙のタイミングつまり「技」を頭の中で超スローモーションで想像・再生し修整・編集し直して納得して初めて「この目で見た」という気持になれますわたしは彫刻家ではないのでわたしのいわば「脳内ビデオ」が正しいかどうかは判りません彫刻家自身からのサジェスチョンがあればそれをもとに再修正することになりますがそこに自分のピントが合わない限り「見た」という気分にはなれません
 そうやってすべてひとつひとつ自分の感覚の中に落とし込んでいくことがわたしにとって「ものを視る」という意味のようです。And、その最も解りやすい場所それがどうやら「切り口」ということらしいんです。But、それはけっしてわたしだけの特別な視点でもなさそうです時代劇映画などで侍が人を斬るその切り口を検視すればどれほどの使い手か判るなどというかなり専門的な設定でさえ誰もが疑問を感じずに映画に興じることができますわたしの視点はむしろとても常識的なものだということになるでしょう
 

But、通り一遍の“ざっと見”では無理です映画の中だって深く「じっと見る」はずですじっと見ている=何もしていないじっと考えている=何もしていないという等式が「あなたは今日何を・・」の質問から感じられるとき一つの断絶がその切り口を見せているんだなと思うのです

保存された写真を見るとき

06/03(土)にアップロードしました

お元気ですか寒暖の差が大きい時期そのうえ雨が降れば線状降水帯だの嫌な言葉が耳に定着してしまいましたわたしはちょっと疲れ気味です例によってこの動画にもかなりの体力時間を費やしました水彩の制作時間は1時間半ほどで描くこと自体は(撮影のための無理な姿勢を別にすれば)楽しいのですが編集がね

パソコンの前にずーっと座り続けるのも確かに辛いけれどその他にあるたくさんの用事をすべて後回しにするそのことのストレスが夜深い眠りを妨げるんです

スイートピーは教室用のモチーフをわたしの保存写真の中から探している時その中から見つけたものです写真って撮っておくもんですね“これ絵になるな”パシャっとやってから描くまでに何年もかかりそのカフェはもう存在しません
 写真を探す過程で過去の作品写真もあちこちからいっぱい出てきますじっくり見ている時間はないのですが見るたびにハッとする絵も結構あります手前味噌で恐縮ですが苦しみつつも自分なりに(心の中を)正直にかたちにしていたことに「自分がんばっているじゃん」と声をかけてやりたくなりますあなたにもきっとそんな何かがあるんじゃないでしょうか。 

そういう絵をたぶんもう二度と見る(見せる)こともなさそうなのが残念にも思いますがわたしが死ねば結局ただのゴミその時はこれらの絵と一緒にわたしを燃やしてほしいと望みますが社会の中で生きていればそれもまた叶わぬ夢のようです