桜を描く

東武動物公園の桜

桜を描こうと思う場所は東武動物公園の園内今はまだ桜の時期ではないから写真をもとにする

メリーゴーランドを撮った写真は他にもあるはずだが保存の仕方が悪く探し出せないパソコンの仕組みをちゃんと理解していないとこういう時に困る。But、とりあえずこれで考えていく

パッと見て主題である「桜」が小さくてどこにあるか探すほど反対に池と空が広くこのまま描けば「遊園地の池」という題名の絵になってしまう桜は淡い色だからクローズアップするか面積を増やさないと見えてこない正面真ん中の岸辺はそういう意味で全面的にカットしてみる画面右半分が絵になる部分かなと思う

右半分は桜とメリーゴーランドとの明暗の差が大きく遠近も極端で否応なく目立ちますここを描けば楽に一枚の絵ができますよね(芸術作品とは言いません)。However、他が割と単純な木だけなのに対して複雑な構造物で手すりやそのカーブなどある程度の正確性を表現しなければなりませんそういうのが苦手な人にとってはちょっとチャレンジングなモチーフになりますが腰を据えて時間をかけて下描きをすればクリアできます最後に暗い水面に花筏でも浮かべられればサービス満点じゃないでしょうか

「桜の絵」という絵

桜を見るー試作

去年失敗した桜(の絵)をもう一度描き直そうと構図も替えてみた前よりはましになったが残念ながら面白くない絵ですね何が面白くないかって?すべてが見る人の想像の範囲内だからですそこからはみ出る部分を作るには硬くなった脳ミソにツルハシを入れハンマーで砕きながら新しいミソを入れ替えないとダメそうですね。But、新しいミソはどこで手に入れる?

the filter called body

思わずポカンと口を開けてしまったそこにわたしのやったことが書いてあったからちょっと長いが引用する―「たとえばリンゴと言えば赤くて丸い果実のことですよねもうガチガチに辞書的な意味が固まっていて亀裂などないだけど詩人は言葉と意味の束縛を解いてまったく違う意味を見つけますリンゴを割った断面を崖の斜面に見立てたり・・・」―まるでわたしが崖とリンゴ(今のAppleシリーズにつながる)を結び付けた瞬間を見ていたかのようだ

今朝読んだ朝日新聞デジタルでの連載「AIと私たち」の中で郡司ペギオ幸夫氏が述べたこと(ちなみにペギオはペンギンが好きだからなんだと)。But、次の瞬間別のことも考えた「例に出すってことは誰にも分かりやすいってことなんだな」飛んでる発想ではなくてちょっと横に一歩足を出してみただけってことかと。of course、わたし自身もその程度だなとは当時も今も思っているけどね

こうも言っている「AIそれ自体よりAIによって世界がすべて理解できると思いこんでしまう人が増えていることが怖いですね(少し短くしています)」解剖学者の養老孟子氏が「AIはバカの壁を越えられない身体を馬鹿にするなと言いたいね」と述べていることにもつながっている

「何を描くか」の発想を考えるとき(今はあまりしないが)まず詩集を手に取ってイメージの湧きそうな言葉を拾い出すことから始めていた詩の内容はあまり深く理解できなかった気はするが言葉から発想空想を広げられるかどうかにはわたし自身の経験が重なることが必要だった「身体というフィルター」を通して言葉と意味を行き来させるかぎりそこには鮮やかな(個別の)ディティールが浮かび上がる小さな突起で腕を擦りむいた―そんな身体性が作品を支えていたんだなあAIが作る画像の空虚さがまさにそのことを裏返しに示しているのだと思う