制作開始

Apple-海を渡る(制作開始)

6月のグループ展へ出品予定の作品(100号)本来ならとっくに仕上がっていなくてはならないはずなのだが尻に火が点き燃え始めおなかの方まで燻ってきてやっと腰を上げたもう尻は真っ黒こげになっているかもしれない今月末がデッドライン

テンペラで描き始めたエッグ・テンペラは鶏卵を糊(接着剤)にして色の粉を中に練り込みそれを画面に定着させる古典的な技法糊を玉子ではなく膠に置きかえれば日本画になるつまり日本画と材料的には親戚である。For the time being、モノトーンでイメージを描きだしてみた

描き始めてみると100号はいかにも小さい個々のモチーフを画面に配置すると本当にちっぽけなものになる少し離れたら見えなくなるのではないかと思うほどそのうち細部を描く段階まで進めば画面を広く感じてくるようになるが今のところはのびのび自由なフィールドだもう少しイメージの変化があるかも知れないがいろいろ検討する時間がない勢いのままに一気に描いてしまえればいい

初めは「Apple-ヴィーナス誕生」と仮題をつけてみたボッティチェリの同名の有名な作品のパロディをちょっと意識した波はやや北斎「神奈川沖浪裏」にも似た形象。But、そこまでそれ以降は画面からの要求と作者の主張との綱引きになっていくそれが絵を描くことの楽しみだが急がなければならないのが残念
 ※ビデオ「桜を描く(仮題)」を今日3/17アップロードする予定でしたができない見通しですすみません“できるだけ早く”ということに訂正させていただきます

青いカモメの会絵画展、22日から

青いカモメの会絵画展案内状

青いカモメの会絵画展が22日()から始まるそのための準備が進行中だが個人個人の作品準備はどうやら一段落ついた感じがするまだ準備が全然出来ていないのはわたしだけだ、surely。

出品作品を事前に見せてもらっているがけっこう面白い作品がある手前みそだが“老齢スクール”(失礼承知ですがごめんなさい)としては意欲的で若々しい作品が多いと思う。please、多くの人に観てもらいたい

on the other hand、本人または家族にあちこち不調ができることも年々多くなってくる年相応どうしても避けられないことではあるけれど無理しないでと思うようなときもあるそんななかでもみんなが絵を描く気力を保っていることは誇らしい彼女らの絵には日常と非日常が渾然一体となってきているのを感じる描くことが特別なことではなく(それなりのプレッシャーはあるにせよ)日常の一部になりつつあるのを感じる
 「芸術」がなんだか特別な人々だけの手の届かぬ世界のことのように思っている人がいまだ大多数に違いないがそのような行き方では芸術は死んでしまう絵画に限らず芸術家は常に人々が芸術を「日常化してくれること」を切望してきた表現としては同時代の人々の理解をこえるものであっても“それでも理解して欲しい”と訴え続けてきたのが美術史のもう一つの見方だと考えている芸術はモノにではなく人間の中に在る確かに作品は物理的なモノだけれどそれを作る人の時代と環境を抜きにしては語れない環境とはそれを支える人のこと

青いカモメの会絵画展ではいわゆる“正真正銘の芸術作品”はたぶん期待できないかも知れない。But、「青いカモメの絵画教室」ではあえてそれを目標にしてこなかった(チャレンジはおおいに結構)し青いカモメの会絵画展は「芸術を支える人の芸術展」であることが大事だとも考えているこれまでのツライ「絵画修行」で絵を描くことの内側を体験理解してきたそういう視点を持つことそれぞれの表現やレベルにもゆっくり造詣を深めてきたそしてそれがどんなかたちであれ社会に染み出していくそういう存在になることが大事だしそうなってきたなあと嬉しく思っている

枝垂桜コロナで数年見られなかったがことしは見れるかな

桜の話題が広がり始めたそれにしても本当にこんなに日本人は桜と紅葉が好きなのだろうかウクライナ戦争があろうとトルコ・シリアで大地震があろうとコロナがあろうとマイナンバーですったもんだしようと結局桜の話題に流されてしまうおそらくこの国の将来がどうなるかより、When、誰とどこの桜を見に出かけるかの方が重大事なのに違いない

桜さえ咲いていればこの世は天国。12年前の東日本大震災の直後はちょうど桜の時期に重なったそれでずいぶん癒されたという人もいるだろうけれどそれで災害の悲惨さがずっと軽くなってしまったという面もありそうだ桜は日本人にとって苦しいこと嫌なことを忘れさせてくれる巨大な“免罪符”のように働く力を持っているらしい

桜を少し皮肉っぽく言ってしまったが桜を見るとわたしもやはり気持ちが浮き浮きする桜の絵を子どもの頃は何度も描いた気はするが本格的に絵を描くようになってからはほとんどまともに描いた記憶がないせいぜいスケッチまであからさまな「天下泰平」賛歌か皮肉屋と見られるかのどちらかにまとめられそうなのが嫌だというのもあるが造形的要素としても何となく物足りない感じがするからでもあった。That point、日本画家は皆せっせと桜を描く桜は日本人にとってすでに象徴でもあるから写実性よりも象徴性に重きのある日本画にはぴったりの画題だということは頷ける

桜をことしは描いてみようと思い立った造形的に弱い感じというのはわたしが造形化できないということであり別に桜の方に罪があるわけではないいつもどんなものでも絵になるはずだと考え主張してているのだから桜を避けていたのがむしろ不思議な気さえしてきた