風景

公園から (水彩)

木の肌を見ていたコケのようなものが木肌についているそれがなんだか斑点のようだ向こうの木には陽が当たり少しだけすべっとした手ざわり感樹種が異なるから樹形も全然違う

足元に影が伸びてくるよく見ると枯葉の一枚一枚もとてもきれいだそこにも一つの完結した世界があるのをはっきりと感じるきれいなものをきれいなままに描きたいと思えばきれいさだけを抜き取る以外にない。אָבער、どうやって?

そうだきれいな風景があるのではないのだったそれだけを見ていても本当は何も解らない「見るべきものは自分自分の中にその風景がある」のだった自分で言っといて忘れるなんて…その程度の自分だなあ

風景

公園からーEvergreen (水彩)

風景ー美しい自然環境や人間と自然の織りなす風土歴史的環境などを描くものそんな風に多くの人は思っているし私も長くそんな風に思ってきた

絵というのはどんなものを描いても自画像だという言い方があるもう少し私流に言いかえればどんなものを見てもそこにあるのは自分の投影だということ寂しい人にはどんなものも寂しく見え寂しいものしか見えてこない

美しい風景があるのではなく美しさを感じる心がそこにあるということだろう絵というものはきっとそうやってできているものだ

久々の自転車だったが

夕方近所の川土手沿いに散歩した(自転車で長距離の歩行はその日その日の調子による)夕方5時半頃には既に暮れかかり満足に餌を採れた大きな鴨たちは既に首を羽根の中に入れ眠りに入ろうとしていた

川幅せいぜい5メートルその真ん中あたりで夜を過ごすのなら大きめの犬なら一跳びすれば十分届く距離鴨から見れば気が気じゃないという位置だと思うのだが自分の危険センサーに自信があるのか案外慣れているようだ細切れでも一瞬に深く眠るそういう能力があるのだろう夜が明けたら寝ぼけていては危険一刻も早く眠りにつく意味は理解可能だ

釣瓶落としの夕日の中すぐにお腹が冷えて調子悪くなった