אינפֿאָרמאַציע וועגן די בלוי סיגל אַססאָסיאַטיאָן און געמעל ויסשטעלונג 4月9日(水)午後から「青いカモメの会・絵画展」が始まります。埼玉県春日部市の「粕壁市民センター」です。ことし名称変更になったのですが、多くの人には「春日部中央公民館」の方がずっと良く知られています。お間違いのないように願います。 「青いカモメを描く絵画展」と勘違いして、カモメの絵ばかり並んでいると思った「カモメのファン」と一度だけ、偶然に会場でお会いしたことがあります。「カモメ(海鳥)」をテーマにした絵画展ではありません。伸び伸びと、絵画の空を飛んで欲しいと願ってのネーミングです。その名の通り、皆さん伸び伸び自由に描いています。ぜひご覧くださいますようお願いいたします。
עס איז שווער צו ציען קאַרש בלאַסאַמז 「桜のある風景」 水彩 桜に対する日本人の “熱愛” は “超” 特別だ。その一種の「異常性」が普通の日本人(わたしも含め)には正常と感じられている、という異常性の出発点は「小学校の桜」にあるのではないか、と多くの人が述べている通りだと思う。わたしの知る限りでも、校庭に桜が無いという学校を見たことがない。現実空間には存在しない「デジタル小学校」のようなものがあったとしても、きっと画面のどこかに桜が入っているに違いない、とさえ思う。 さらに花のタイミング。幼少期の大きなイベントは多く学校に関わることが多い。その中でも入学、卒業は特別な意味を子どもにも感じさせる。その背景にいつも桜がある。東日本大震災は3月だった。震災直後の満開の桜は、その清々しさゆえに喜びよりもむしろたくさんの日本人の涙を誘ったものだった。桜は単に花であるだけでなく、深い心情を伴った象徴でもある。そのことが、モノとして桜を描くことをさらに難しくする。 אין דעם זינען、ほぼ100%に近い人が、一度は桜を描いた(描かされた)記憶がありそうだ。そしてその90%以上の人が、(ピンクをただ塗りたくる以外に)どう描いたらいいか、悩んだ経験を持っているに違いない。わたしも小学生の頃に感じたそのコンプレックスがずっと尾を引いて、今も解消できずにいる。אַחוץ、風景としてはあまりにも普通過ぎて新たな視点を見出しにくい。桜への熱愛に比して、公募展などでは桜の絵がむしろ少なめなのは、きっとそういう理由だろうと思う。
川のある風景 車窓から 「元荒川風景」 水彩 上の写真は、東京へ絵を運ぶ時にいつも通る、国道4号線にかかる橋からの車窓風景。絵になる場所だなと直感するが、車を降りて取材したことはない。あらためて取材に出かけたらきっと収穫があると思いつつ、その時が過ぎると次の機会まで思い出すこともなかった。 取り立てて「ここが良い!」と強調するようなところがないのがいいのかもしれない。「穏やかな日常」の表現に適当な場所、ということかな。世界は至るところ戦火がひろがっているし、日本の中も災害やSNSなどを使った詐欺事件などで気持ちが落ち着かない。「絵になる場所」、と思った時から10年は経ったかもしれない今になってこういう風景を描くのも、あながち年のせいとばかりも言えない気がする。