我がアトリエの窓辺はサボテン類で賑やか。肥料もやらないのにどんどん大きくなる。次から次へと花も咲く。サボテンたちの生育環境に合っているのだろう。それとも彼らがうまく合わせているのか知らないが、一見小さな楽園である。
けれど我が窓辺は陽射し厳しく、押し合いへし合いの場所取りにも、毎日しのぎを削らなければ生き残れない。戦いに敗れたサボテンはすでに幾つも姿を消した。勝っても、調子に乗って伸び過ぎれば大魔王(わたし)によって引き抜かれ、ポイ捨てされてしまう。無慈悲な生き地獄なのだ。
我がアトリエの窓辺はサボテン類で賑やか。肥料もやらないのにどんどん大きくなる。次から次へと花も咲く。サボテンたちの生育環境に合っているのだろう。それとも彼らがうまく合わせているのか知らないが、一見小さな楽園である。
けれど我が窓辺は陽射し厳しく、押し合いへし合いの場所取りにも、毎日しのぎを削らなければ生き残れない。戦いに敗れたサボテンはすでに幾つも姿を消した。勝っても、調子に乗って伸び過ぎれば大魔王(わたし)によって引き抜かれ、ポイ捨てされてしまう。無慈悲な生き地獄なのだ。
何日か前に同じ構図の絵を載せた(8月5日「陸上女子1500m」)。その別バージョン。その時は前の方がいいと思ったけれど、今見るとこちらの方が(一見おとなしく見えるが)、線とフラットな色彩のぶつかり合いという狙いの明確さ、無地の広さから考えると、こちらの方がより大胆だ、と(今)は感じる。
目先の目くらましの効果につい意識が奪われてしまう。いつもゴールがどこかを探し続けていないと、それだけで終わってしまう。それはちょっと残念だが、ゴールをどう設定するかはその人の価値観ということだから、たやすくは設定できないし、最終的に辿り着くものをいきなり最初に立てるということ自体にも無理がある。אָבער、ゴールは絶対必要。
わたしにとっての、絵のゴールとはなんだろうか?わたしはゴールを未だに設定できていない。というのは、わたしにとってのゴールはすべての制作の彼方にあって、まだ遠くからの灯台の光のように、時々光芒が見える程度に過ぎないからだ。נאָר、あっちの方角だなと見当をつけて歩いているだけ。その途上に道が現れ、坂を上り下りし、時には道のない藪に迷い込んだりする。その時々、ちょっと小高いところに立てば次の「目標」が見える。次は「線の考え方を変える」つぎは「線と色の関係性について考える」などが目標になる。
אָבער、1枚の絵にはそれなりのゴールが必要であり、そういう意味でのゴールのイメージは当然ある。この絵(に限らないが)のテーマは「表現のパンチ力」。「優しい」「気持ちのいい」表現とは少し距離を置こうとしている。もっと破壊的、前衛的な表現もあるが、それは今のわたしには厳しい。ボクシングでいえば、リング自体を破壊するような表現ではなく、とりあえずリングの中で対戦する。そういう意味でのパンチ力。ジャブは「強い線」、ボディブローは「単一な色面」、カウンターパンチは「塗り残し」。「塗らないという技術」が、今のところわたしにはいちばん難しい。
昨日に引き続き、今日も暑い日だった。今日はどこへも出かけないつもりで、お昼にちょっとワインを飲んだ。するするっと一杯が2杯になり、2杯が3杯に。昼ご飯代わりに飲んでしまった。動画編集をするつもりだったのに、ビデオを見るだけで夕方になってしまった。
やることは山ほどあるのに、(ワインを飲まなくても)仕事のスピードはどんどん落ちる。覚えることも山ほどあるのに忘れる方が多いくらい。ああ。夕方から、ハガキ大の紙にペンと水彩のスケッチ練習をした。10月中旬までに12枚描く必要があるためだが、ひさしぶりにハガキ大を持つといかにも小さい。そのために昨日0.2mmと0.3mmのペンを買ってきたのに、それでも太い感じがして、0.1mmを探した。6枚描いてみたが、使えるのは無さそう。