יפן הכבושה

יפן הכבושה

車で近くの農業産品を主にしたマーケットへ、או שעווה משהו דלעת לקורס、ניסיתי לצאת אם אין שום דבר שיכול לשמש מוטיב חיים עדיין。

יש נפתחים כמה בחוץ、היה ראשון בחנות (השטויות) העתיקה。אף שזה לא מתכוון חשב שזה יהיה טוב、קורא איכשהו שלכד את העיניים。בשנת מוצר קרמי קטן של 10 ס"מ גובה כ、אותו דבר ישנם שני אחרים、הוא רק כמה דקות כבר מדברים הוא כאשר אנשים בחנות צופים。היה קצת זהיר כי בסופו של הדבר קונה בכל זרימה סופית ולשמוע את הסיפור、וזה מוכן לקנות לחלוטין a'll לא אומר לב、החלטתי להקשיב לסיפור。

Made in Japan הכבושים ויש חותמת על הגב הוא、1930 שנים 22 שנים 27 שנים、כמו יפן הכבושה、כלומר רק לתקופת מילת המדינה יפן אבדה、הראה כי ניתן להציג את המוצר ליצוא נדרש (ויקיפדיה)。1952 (1952), אך הסכם השלום בסן פרנסיסקו ב -28 באפריל, נכנס לתוקף בין יפן ומדינות הכיבוש、יפן מתקופה זו כדי לשחזר את הריבונות、הוא סיפר לי שהוא היה אמור להיות מסוגל להציג מתוצרת יפן。אמצעי זה כי היצוא של זמן כי יפן היא כבר לא ביפן פעם אחת בלבד、זה דבר שהיה Homecoming ביפן כמו עתיק שוב והפעם。עצמו יכול is'm לא הרבה של מונו、5מכיוון שיש מגבלה באותה שנה、נראה אספן הגון להיכנס לארצות הברית。

אם אתה ממתין זמן רב מדי שמעת כל כך、תמונה של התמונה הם שחילצו ניחוח。זה רע! תגיד אתה זול ולשמוע את המחיר。יותר ויותר רע! קניתי את כל שלושת החלקים אחרי הכל。אבל בגלל שקניתי שלושה במחיר המקורי של דקה אחת זה היה המצב הרוח הושגה。הייתי הרבה היא "העלות של אשתו。מאז הוא במהירות הוריד את、אבל זה בוודאי היה נדמה לי שאני ירדתי זעקה אחרת, "היא אמרה בעצב、לא הרגשתי כי התשובה האחרת。2011/09/11

ジャイロスコープ

ジャイロスコープ(船の科学館)

船の美しさ続編写真は船の航行には必須のジャイロスコープ羅針盤と言えば分かりすい(青い色はそれを覗きこんでいる私のシャツの色)だろうかこれは実際に遠洋航海で使われていた船を解体した際保存されたもの全くの実用品だが実に美しいではないか?

今では死語になりかかっているが私の学生の頃は実用の美とか機能美という語がまだあった美そのものを目的とした美術品と違い純粋に機能性実用性を目指した器具が結果的に不要なものをそぎ落とした美しさを獲得するという意味の語である

誰が言い出したのかは忘れてしまったがそれらの語には装飾あるいは余裕(過分?)に対する嫌悪感がこっそり隠されていると私は感じていた肉や脂肪の持つ肉感性官能性に対して骨の白々とした質素な美しさを好む志向だと言う方が分かりやすいかも知れない私などはそうした美学に共感しつつも「不要な物」というその独善的な物言いに多少の反発も同時に感じたものだった

このジャイロスコープを見てそんなことを思い出したジャイロスコープは美しくなくても使い易ければそれでいいこのジャイロスコープもその方針で作られたものに違いないその意味では「骨」的志向と言えるだろうダイヤ形の印しも見やすさを考慮したものだけれどこの大きさはこれよりほんの少しサイズが大きかったり色がほんの少し薄かったり黒味がかったりしても実用性に問題は無いそれなのにこれをジャストとしたことには設計者制作者の美学が入り込まざるを得ないこれは「骨的な志向」ではなく「肉」的な志向ではないかそぎ落としていくだけでは本当の美は生まれ得ないのではないかそんな風に当時も感じていたのだった

ともかく船の内部器具用品にはなぜか美しいものが多い自動車でも飛行機でも事情は変わらないようなものだが美しさという点では格段に落ちる気がする(多くは私の偏見だろうが)その違いの一つは「重さ」から来るのではないかと私は睨んでいる

船の備品は飛行機や車に較べ総じて重く大きく武骨である揺れる船上での扱いがそれを要求するのだろうがそれが人間の感覚にどっしりした安心感や親しみを与えるのではないかと感じている設計制作に携わる人々にもそれは共有されだから船という一つの美しい体系が出来上がっていくのではないかと思っている。2011/9/10

 

やはり船はいい

南極観測船「宗谷」ブリッジから(お台場・船の科学館)

久しぶりに少しだけ海を見た気がする半月ほど前に下北へ行った時も海岸線を車で走り海は毎日見ていたのだが全然そんな気がしなかった父のクモ膜下のことでそんな余裕も無かったいくらか自分の気持ちも落ち着いてきたのでスケッチに行くことにした

場所は今後のスケッチ会の下見も兼ねて東京に決めていた船の科学館が今月一杯で再開未定の休館になるというのでこれをメインに時間的に可能ならばスケッチするというつもりで出かけた

写真はそこに係留一般公開されている南極観測船「宗谷」のブリッジからの眺め正面に向き合っているのは水産庁の船(東光丸)その奥に広がるのは東京港への水路だろう対岸にはコンテナとコンテナ船がびっしり荷役用のリフトがニョキニョキ立っているこんな風景は宗谷にはふさわしくないだろうが仕方ないおかげで子どもの頃に本で見た記憶のある(テレビの映像の記憶かもしれない)船を実際に見ることができたのだから

אבל、記録を見ると宗谷はもともと旧ソ連に貨物船として発注されたもので国際情勢の変化で民間の小型貨物船「地領丸」として1938年に就航した船だからむしろ本来あるべき風景の中に戻ったと言うべきかもしれない

地領丸はその後すぐに海軍特務艦になり「宗谷」と改名測量輸送の任務に就く戦後は引揚げ船海上保安庁の燈台補給船として使われた後、1956年に南極観測船に転用されたその時点でも既にかなりのボロ船だそのいきさつも面白いがこのたかだか2700トン程度の(本当に)ちっぽけなボロ船を実際に見るとこれを初体験の国際南極観測船として送り出したこのニッポンという国のおかしみと哀しみを感じざるを得ない戦後間もないとはいえほとんど特攻隊そのままではないか一方で隊員たちの弾けるような好奇心と若さがそれを乗り越えたことに今も大きな共感を感じることができる

南極観測は極寒の銀世界のイメージしか私たちには浮かばないが実は途中で赤道を通り過ぎるわけでその猛暑対策が大変だったらしい初めにソ連の氷洋貨物船として建造された経緯からも暑さに対しては全く考慮されていない船だったことが分かるそこに同乗させられたソリ引き用の毛むくじゃらのカラフト犬などよく死なさずに南極まで連れて行けたものだと思うタロジロの本当の苦しさは実は南極よりインド洋にあったのではないかと想像した

船は形も美しいがその歴史にも何とも言えない深い(人間的な)味わいがある沈んだり解体された後まで人が船に引き付けられるのはそこに小説のような魅力があるからかもしれない