はだかになること

チューリップ(描き始めの頃)  F6 tempera on canvas

絵の世界では「はだかになれ」と流行語のようによく言われたかつては日本の洋画(というのも変な言い方だが)をけん引してきた美術団体の一つ二科会では「裸まつり」と称して上野の山からビーナス(美の女神)役の女性を神輿に据えて街なかへ繰出したものらしいこの「はだか」は裸体という生モノであるがもちろん精神的な「はだか」=「解放」の象徴である

毎日はだかで制作しただけでなく来客までもみな裸にしたという「説教者」のようなオジサンやはだかで真昼の女子高校の周りを一周して「精神を鍛え」ようとした猛者?も実際に少なからずいたようだが「はだか」になることが大事だと言われるのは絵の世界に限らないほぼすべての芸術領域ではよく聞かれる言葉であった(芸術以外の領域でもあるようだが)

じつはわたしも何度もそう言われた経験を持っている多くの人は心を開放する意味での「はだか」より実際に人前で裸になることの方が難しい(恥ずかしい)と考えているだろう。אָבער、おそらく現実は逆で心をさらけ出すほうが何倍も難しいとわたしは思う人のこころは火山に似ていて「さらけ出したい」或るものとそれを抑圧せざるを得ない理性・トラウマなどとの「摩擦熱」をマグマのように蓄えていなければ人前に自分のこころをさらけ出すというエネルギーなど生み出せないからである

こころを開く―はだかになるってどういうことなんだろうか「やりたいことをやればいい」だけじゃヒトも動物であるという自明のことを再証明するだけだたとえば表現者なら何をどうどのレベルでやりたいかそれを傍若無人にやってみる人からどう思われようと構わないそれが「はだか」の意味だろうとは思うけれど一方で人は人と人との間で生きてもいる(だから人間?)根本的な矛盾を抱えているその矛盾の隙間に根を張るものそれが芸術かも・・・などと考えているようじゃはだかなどにはなれそうもない

CGスケッチ

Apple on the note  CG

CGスケッチという単語があるかどうかは知らないがごく最近のわたしはなるべくCGでスケッチするよう意識している鉛筆が紙にこすれていく手触り感などひどく官能的でついそちらを使いたくなるがぐっと踏みとどまる

スケッチだから目の前には対象物がある紙のスケッチブックと同じように描いていくペンとかブラシとかの選択肢がめちゃくちゃ広いが使うのが何となく手触り感のあるブラシに偏りがちなのは普段から実物をつかっているせいだろうわたしはこれを経験からくる利点と考えるがある人はそれは欠点だという実作の経験がCGでの可能性を逆に狭めるなるほど

タブレットは確かに多機能できわめて便利であるが一番の難点は小さいこと。1mサイズで描きたいときでもせいぜい20㎝程度の中で描くしかない拡大すればいくらでも大きく描けるとうたわれているが具体的なサイズの違いは身体の使い方からして全く別次元の問題だたとえば大きな画面では立って描くそして腕を大きく使って描くがタブレットではそんなことはあり得ない

אָבער、その難点?こそタブレットのタブレットたる所以であるのだからわたしにとっては甘辛い。אַחוץ、紙のスケッチではあとでそれを写真やスキャンしてパソコンに取り込み加工してきたがCGスケッチではそれが同時進行であるひと手間もふた手間も短いしかも完全にデータ化されどのような媒体にも横展開が容易であるしたがって使わないという選択はもったいなさ過ぎる—でもなあ紙に描くのが気持ちいいならそれがいいんじゃないか—1枚より100枚、1万枚の方がいいと考えるのはその方が「知識化」されやすいからだろう芸術の秘密は知識化されることでかえって失われるものもあるんじゃないか—悪魔がいつも耳元で囁く

晨春会展を終えて

青いカモメ   紙・アキーラ

春会展は昨日6日(日)午後五時で終了コロナ禍下躊躇はしたが開催して良かったと思っていますご来場の皆さん、דאַנקען דיר。来場できなかったけれど応援してくださった皆さん、דאַנקען דיר。厳しい意見を下さった皆さん、דאַנקען דיר。それらの励ましを得てまた次回展への力にしたいと思います

東京・六本木の国立新美術館では春の美術展が軒並み作品は全国から搬入・審査し陳列までして開場しないという「異常事態」が続いていましたコロナを恐れるのは自然だけれど「(正確な知識で)正しく恐れる」という過剰反応しないようキャンペーンをしていたのは国や都県などの自治体だったはずですそれが突然開催を中止させること自体一貫した論理性もなくただ目の前の状況次第で行き当たりばったりの対応をとってきたということです。אין דעם זינען、わたしたちが冷静に判断し開催したのは論理的にも明快であったと考えています

観客が少ないのは予想済通り集計は聞きそびれましたが例年の三分の一程度でしょう観客のほとんどは高齢者出品者のほとんどが高齢者で各自がその知り合いにDMを出すのですからそれも当然ですが、5年後を考えるとこの展覧会もいろんな意味で瀬戸際に立っていると考えざるを得ません

入場者数の減少は必ずしもコロナのせいばかりではないでしょうコロナが収まれば回復するかと問えばわたしの答えはノーです展覧会をビデオで見ることができるなら今回会場に来て下さった方々でもそうするのではないでしょうかビデオで流すことができれば年齢や健康状態住んでいる場所に関わりなく見てもらえるチャンスがあります(膨大な数のビデオの中からどうやって探してもらうのかはさらに問題ですが)先にも書きましたが画像や映像で見るのと実物を見ることとは別物ですが見る見ないでいえばいずれにせよ見てもらう方がいいに決まっています若い人たちはとっくの昔にそう考えあらゆるものをそうした媒体に載せて発信していますわたしたち(だけでなく多くの)の既存の展覧会は遅れ過ぎているのです

晨春会はなぜそんなに遅れているのでしょうかひとことでいえば若い人がメンバーにいないからですなぜメンバーにならないのかあるいはスカウトできないのか若い人たちになぜ魅力がないのかどうやったら魅力を作り出せるのかそういったことをあまり考えてきませんでした来年も晨春会展はやるつもりですけれど5年先はあまり見えてきませんここ数年同じことを考えているのですが行動ができませんでした来年の今頃もまた同じことを考えていなければいいなあ—海へ行きたくなった