
昨日(10/23)から「風土に生きる・X展」が銀座・ギャルリー志門で始まりました(~28(土)まで)。昨日は初日。無事に始まり、ホッとしています。
わたし個人は今回で、この展覧会を離れます。אפשר、都内で発表するのも今回が最後になるでしょう。発表する機会はほとんどなくなりますが、どんなかたちであれ、絵は死ぬまで描いていくと思います。

昨日(10/23)から「風土に生きる・X展」が銀座・ギャルリー志門で始まりました(~28(土)まで)。昨日は初日。無事に始まり、ホッとしています。
わたし個人は今回で、この展覧会を離れます。אפשר、都内で発表するのも今回が最後になるでしょう。発表する機会はほとんどなくなりますが、どんなかたちであれ、絵は死ぬまで描いていくと思います。

ふたたびざくろを頂いたので、教室の参考作品にしようと数点描いてみた。背景の「半袖シャツ型の折り紙」も、俳句会の際にAさんから頂いたもの。以前に、尾形光琳の杜若(かきつばた)のプリントを、洒落た蓋つきのキャンディボックスに折ってくださったのもこのブログに載せたので、二回目の折り紙登場ということになります(2022/11/19「西洋梨と杜若(かきつばた)」)。
鉛筆スケッチから完成まで1時間半ほど。このステップを細かく作業分けすることができれば、誰でもこのくらいは描けるようにすることができる(はず)。そのステップ分けの分析と作業手順の明確化、一般化がわたしの仕事だ。
水彩スケッチができるようになればいいなあと、思っている人はこの程度描ければ十分だと思う(失礼な言い方で、ごめんなさい)。スケッチに必要なほぼすべてのテクニックが使われているので、技術的には必要十分という意味です。נאָר、絵というのはきれいに描ければよい、という次元にとどまらない、もっと深いものがあります。
それはスケッチ程度じゃ解らない、という意味ではありません。描くこと、見ることを通じて、そこから何を感じとるかが大切だと思います。どんな絵でもよくよく見れば、画面の表面を透かして、その人の感覚や考え方、身体状態、すこし時間をおけば時代の雰囲気さえうっすらと浮かんでくるものです。そういう眼を「自分自身で育てていく」、そしてそこからもう一つ深い世界への扉を開くということです。たぶんそこが「芸術」への「連絡通路」です。そこに入っていかなくても、自分の目で見えるだけで素晴らしいと思います。
おそらく誰でも、スケッチを続けていると(ストイックに、必死にならなくても大丈夫だよ)、ある日不意に「スケッチとはこういうものなのかも」という覚醒の瞬間が訪れます。何度もそうやって、少しずつ深いものに到達するのです。見た目には別段上手になっているようには見えなくても、解る人には解るようになっていく。そうなって欲しいですね。

優先順位をつける必要がある人の多くは若く忙しい人だ。現役引退するとかして、ヒマを手にできた人は優先順位なんてつける必要ない。やりたいことを思いつく順番にやっていけばいいし、それこそ “特権” だと思う。ヒマこそ人を幸せな気分にし、それぞれの人生に微細な味わいをつけるプラットフォームだ。むろん忙しい人もそうではあるけれど、建築なら土台や壁、設備と、部屋のインテリア、調度の違い、車で言えば基本性能とマニアックなこだわりのような違いが、忙しい人と暇な人との間にはあるような気がする。ヒマな人も大事だよ、という意味ですが。
優先順位とは、「その時点での重要度の順番」ということだから、「その時点」が過ぎれば、優先順位が一気に変わるのはごく当たり前のこと。デッドラインに一番差し迫った事柄から重要度が高まりやすい。差し迫っているのに順位が高くならないなら、それは直ちにリストから削除される。急ぐ必要ない(急ぐべきではない)か、不要だってことだからね。
自由業、たとえば芸術家はそういうものから外れた世界だと思っている人もいるかもね。אָבער、音楽家が勝手に一人で演奏してもそれで生きていくことはできない。聴衆を集め、何がしかのお金が得られるようにならなけば、サッサと排除されてしまう。
芸術家にも優先順位はありますよ。ヒマそうに見えてもそれほど暇じゃあない。細かなデッドラインがいくつも積み重なっている点では「忙しいひと」と変わらない。נאָר、デッドラインをいくつクリアしても決して一区切りとはならず、明日もまた自らデッドラインを引いていくのが、自虐的といえば自虐的なのが違いかな(笑)。