切り子のグラス (CG )
発想というのはある日あるとき 、突然に頭に閃くもの 。און、それはずっと考え続けていたバラバラなものが 、急にこれまで予想もしなかった結びつき方をした瞬間 。ノーベル賞受賞者たちの中にはこういう体験を話す人がいる 。ノーベル賞でなくても 、発明家などにも同様の体験をする人が少なくないらしい 。
自分と比べるのもおこがましいが 、レベルを別にすれば似たり寄ったりの体験は 、誰でもある程度あるのではないだろうか 。אויף די אנדערע האנט、あの人の発想はいつもちょっと変わっている 、などということもあり 、その場合は突然ではなく 、普段から別回路の発想法?をもっているということになるだろうか 。
わたしがいま望むのは「ノーベル賞型」ではなく 、「発想法型」の発想法である 。言うまでもなく 、マネできそうなのはそちらしかないからだが 、そう思っていろいろ調べたり 、考えたりしていると 、発想(法)云々は実は発想の問題ではなく 、単に「考えること」なのではないかという気がしてきた 。אין קורצן、「考えない人」から見れば「考える人」がユニークな発想に見えるだけなのではないか 、天才的な発想というのは確かにあるだろうが 、一般的にはそういうことがほとんどなのではないか 、と思えてきたのである 。
考えない人などいないだろ!お怒りはごもっともです 。אָבער、まともに 、とか論理的あるいは合理的に 、とかあるいは科学的に等々 、少し限定すると急にその怒りも鎮まるように思う 。何が大切で 、そのためにはどうするのか 、どんな方法があるのか 、それを自分でどうやるのか 、そんな筋道を「普通に考える」ことのほうが 、案外「ユニーク」と考えられているのではないか 。「考えること」は「思う」こととは違う 。考えるためには知らなくてはならないし 、知るためには学ぶ・調べる・経験するという「行動」が要る 。わたしが「考えない人」のど真ん中にいる理由はこれだな 。ナマケモノなんだ 。