ダイエットで自分を知る

Apple on the note

特にダイエットをしていなくても体重やカロリーに気をつかっている人も数えれば大多数の人がダイエットに関心くらいはを持っているはずだダイエットといえばすぐ体重を減らすことだけにとらわれがちだが短期間で1~2㎏体重を減らすだけなら(健康であれば)誰でもできると思う難しいのは数年単位の長期にわたって適切なダイエット(体重だけではない総合的な体調管理)をキープすることだろう

 わたしはダイエットを始めてまだ8ヶ月しか経っていないのでその難しさをまだまだ分かってはいないと思うがたったそれだけでの期間でも結構たくさんのことを経験したその第一はこれまでの自分があまりにも自分自身の身体について無知・無関心だったということ
 カロリーや栄養についてだけでなく食物について食事・調理について消化・吸収などの生理運動と生理食べたいという欲求やその心理などについて潔いほど完全な無知食品の値段だって時にはダイエットに直結するのにまったく無関心だった
 プチ断食でも12㎏くらいはすぐ体重を減らせるけれど半年、1年と健康をキープしながらダイエットを続けるのは最低限の知識と自分の身体に対する観察力がないと無理だと解ってきたそれと自分の生き方とがどう結びつくのかについてもなんとなく意味を感じ始めた

כשאתה חושב על זה、これまで自分の身体についてこんなにも無知でいられたのはまずは健康だからである。אִם כֵּן、これまでの日常を今後も続けていけばいいわけで検診でメタボ予備軍と言われたからといってある意味で「非人間的」ともいえるダイエットなどする必要がないのではないかいま健康な人が「もっと」健康になることにその人自身にとってどんな意味があるのかという疑問・反論があっても当然である

אֲבָל、もう一歩考えてみると何がどう作用して現在の健康を保てているのかということは「いま健康だ」という状態だけを見ても分からない人は気まぐれ食べ過ぎ飲み過ぎは日常茶飯事年齢による変化も当然あるそれらを通してもなお健康でいられるには今のままでいいのか悪いのかそこにちゃんとした知識がないといつか自ら健康を害することさえやりかねないウオーキングや筋トレのやりすぎもよく聞く話である
 ダイエットは自分を知るための方法のひとつだとわたしもやっと気がつき始めたのである

דִיאֵטָה

"סיר צבעוני" טמרה 2021

כאן 1,2בחודש、נשאלתי כמה פעמים, "האם הבנת את זה?" ו"אם קרה משהו? "。ההשפעות של דיאטה באו לידי ביטוי גם במראה。דיאטות מאז סוף אוקטובר בשנה שעברה、זה עדיין נמשך - אני כרגע הולך קדימה ואחורה בין 62.5 ל 63.5 ק"ג。אני מרגיש קל מאוד。אל תדאג。גובה: 169 ס"מ כשנתפסתי במהלך בדיקת תסמונת מטבולית、74כי זה היה ק"ג (69 ק"ג לפני הנגיף הקורונאבי)、זה היה בסביבות 6 ק"ג בהשוואה לפני המגיפה של Covid-19、עבר זמן מאז שחזרתי למשקל שהייתי בתיכון.。ירידה במשקל אינה נראית、היקף המותניים שלי החל לרדת、זה מה שגורם לזה שנראה שהשינויים גלויים גם לסובבים אותך.。

כשאתה מפסיד 1 ק"ג, היקף המותניים שלך יתכווץ בערך 1 ס"מ.。חשבתי שזה נכון אבל、היקף המותניים שלי ממש הצטמצם בערך 10 ס"מ。כל המכנסיים הקודמים שלי התמודדו。לא ניתן להשתמש בכל החגורות אלא אם אתה חותך 10 ס"מ.。עובי השומן התת עורי סביב כפתור הבטן אינו שונה בהרבה、מתחת לזה、השומן שלפעמים רכן קדימה היה כואב נעלם.。גם אם אתה נתפס בבדיקה מטבולית、לא הייתי ממש שמנים、כשאני לובש מכנסיים、מצד שני, אני מרגיש שגופי גלוי לפני הבדיקה。

השינוי הכי נעים שמעולם לא ציפיתי לו、אין צורך עוד הצורך ב"כדורי שינה ".。כתבתי בעבר על "תסמונת פיצוץ פנים-ראש"、בקיצור, הפרעות השינה העקשניות והמרושעות שלי באמת פגעו בי במשך זמן רב.。זהו、סוף סוף בחודש האחרון、אני מתחיל לישון בלי לקחת את זה (זה היה רק ​​חודש)。זו כנראה ההשפעה של הליכה。
במקור, המטרה שלי (השנייה) של דיאטה הייתה、זה היה גם עבור בני שמנים.。כל ילד、○ אסור、אתה צריך לעשות ○、אני רגיש למילים והדרכה הכרחיות (אני עצמי).。מה שכן, אני סובל מתסמונת מטבולית、זהו זה、אדם מסוג זה、גם אם אתה אומר את זה, לא תוכל להקשיב לזה。כָּך、(כמובן שהבריאות שלך היא בראש סדר העדיפויות שלך) הבנתי באופן אישי והדגמתי את השפעות הדיאטה.、חומרים גלויים לעיניו、הוא גם ניסה להפוך לסוג של שפן ניסיונות.。

במקום לבחינות תסמונת מטבולית、これ見よがしに「1㎏」「3kg」と標された「脂肪の塊」の模造品が置いてあるわたしは「3kg」をこっそり手にもって自分のお腹に当ててみたそのずっしりした「嫌な重さ(これが金とかプラチナだったら!立ち上がれないほどあってもいいが)」それが23個も自分の身体から消えた―その心地よさは頂上に立ったときの登山の喜びがずっと続いているような―感じ
 もう二度とアレを2個も身体につけたくないそれが今の心境

多数という暴力

プロミネンスの夕焼けまるでこの世の終わりのよう (2021/06/21)

美術展の審査というのがある世間(日本?)の「常識」では芸術家というのは「非常識」な人が多いらしく少し遠慮して「変わった人」とかいわれている。אם、そのような常識が正しいならそんな人たちが選んだ作品を常識ある人々が納得顔にうなづいている風景は滑稽そのものだ
 少し規模の大きな美術展になると審査に美術家がまったくいないことさえ過去にはあった知り合いの画家をえこひいきするのではないかと世間に思われないようにという配慮からかと「邪推」するが(それがなぜ美術家だけにあると思うのか分からないが)小説家評論家美術館の館長か学芸員ときにはそれに政治家が加わる
 審査結果(の文章)はもっともらしいが何を見ているのかわたしなら簡単に信用することはできないもちろん小説家や政治家に絵が判るはずはないなどと非常識なことをいうつもりはないがそのことに抗議しても無駄である非常識な美術家の意見など多数派になれないからである

 多数派が常に正しいかと言われればそんなことはないと多くの人はいう。למה אנשים לומדים、「でも」と続く。"אֲבָל、多くの場合正しいんじゃない?」。במקרה זה、「正しい」という語と「常識的」とはきわめて近い位置に在る、אני חושב。
 常識とは時と場所によっては非常識である比較的近年まで日本では道端での立小便は「常識」であったものの本によると江戸時代では大人の女性でもそうであったらしい時代劇を見るとよく家の壁にたくさんの竹の棒が立てかけてあるそこにできる三角形の空間が一種の臨時トイレとして利用されていたらしい小さなノズルで肛門まで自動的に洗うようになったこの国で、זהו。
 立小便が常識だったからそれを禁止する法律や教育で「正しさ」を「多数にする」ことが必要になったのだった

多数派工作とは自分(たち)の考えが正しいことを数で示そうとして賛成してくれるよう他人に働きかけることわたしたちは小学生の頃から例えば学級会などでも多数決でいろんなことを決めてきた多数派の意見が採用されるわけだから考えがある人はそれを論じて他人を説得し自分の意見アイデアに賛成してもらうつまり多数派を形成しようとするわけだあるいはその意見に与することで多数派の傘の下に入ろうとするそれをどこかで民主主義という語に半分くらいすり替えられて教わってきたのだが実は「数は力」という「実力行使の別の顔」の使い方を繰り返し学習してきたのだった

 「でも多くの場合正しいんじゃない?」とやっぱりわたしも思いそれに従ってきた。אבל、最近は「多数」とか「常識」ということを脅威に感じるようになってきた
 芸術の世界では「個」以外に存在の価値はない(そもそも芸術家と自認する画家などいないのだが)。100人の画家がいてもみんな同じなどと考えている画家はいない。אז、「多数という実力行使」=暴力にはまったく無力であるそのことはコロナ禍にあって際立ってきたがことの本質はコロナがあろうとなかろうと「多数が正しい」と信じる一種のカルト宗教が世間を支配していることに気がつかないか気づかないふりをして多数派でいようとしている人々が圧倒的多数だという現実である