保存された写真を見るとき

06/03(土)にアップロードしました

お元気ですか寒暖の差が大きい時期そのうえ雨が降れば線状降水帯だの嫌な言葉が耳に定着してしまいましたわたしはちょっと疲れ気味です例によってこの動画にもかなりの体力時間を費やしました水彩の制作時間は1時間半ほどで描くこと自体は(撮影のための無理な姿勢を別にすれば)楽しいのですが編集がね

パソコンの前にずーっと座り続けるのも確かに辛いけれどその他にあるたくさんの用事をすべて後回しにするそのことのストレスが夜深い眠りを妨げるんです

スイートピーは教室用のモチーフをわたしの保存写真の中から探している時その中から見つけたものです写真って撮っておくもんですね“これ絵になるな”パシャっとやってから描くまでに何年もかかりそのカフェはもう存在しません
 写真を探す過程で過去の作品写真もあちこちからいっぱい出てきますじっくり見ている時間はないのですが見るたびにハッとする絵も結構あります手前味噌で恐縮ですが苦しみつつも自分なりに(心の中を)正直にかたちにしていたことに「自分がんばっているじゃん」と声をかけてやりたくなりますあなたにもきっとそんな何かがあるんじゃないでしょうか 

そういう絵をたぶんもう二度と見る(見せる)こともなさそうなのが残念にも思いますがわたしが死ねば結局ただのゴミその時はこれらの絵と一緒にわたしを燃やしてほしいと望みますが社会の中で生きていればそれもまた叶わぬ夢のようです

鮫はなぜ美しいか

スィートピー制作中

あなたは鮫が好きですか?わたしは子どもの頃からずうっと好きなんです鮫にもいろいろな種類があるけれど例外なく好きなんです

קינדשאַפט、わたしにとって鮫は食べ物でした今から考えるとわたしの実家ではわたし以外はあまり鮫を好まなかったようですがわたしはよく食べました魚好きだったわたしにとってのどに刺さる小骨のない鮫は安心して食べることができたからです蒲鉾にするような大きな鮫ではなくせいぜい1メートルくらいの歯のない小さな鮫です。אָבער、それが鮫が大好きな理由ではありません

鮫はかたちも色も生活の仕方も好ましいあの“JAWS” でその凶暴性が知られるようになったホホジロザメ(ホオジロザメ)ももちろん例外ではありません好きな理由を考えてみると①かたちや色の美しさ ②その美しさと優れた身体能力との神秘的なまでの一致感(鮫も実はマグロや鯛などとほとんど変わらない普通の肉食魚です「凶暴性」なら鮫以上の魚はいっぱいいます)あたりでしょうか

鮫ほど優雅で身体能力が高く奥ゆかしくかつ好奇心にあふれお茶目でかわいい顔をした魚は他にいません(恋人のあばたもほくろもすべて素敵と言っているようなものですが)そんな鮫を人間に喩えたらどんなひとになるでしょうかわたしには少なくとも政治家に喩えることはできません。אָבער、政治家にこそそういう資質があってほしいといつも願っています

「美しさ」について

ビデオ「カフェのスィートピー」のワンカット(この瞬間が楽しい)

あなたはどんなときどんなものを美しいと感じるのでしょうか?美しさを感じる対象は芸術のようなもの以外たとえば風景のようなものはもちろん人間の顔表情あるいは声そのものだったりモノではなく行為あるいは数学や化学式まであらゆるものが対象になってもなんの不思議もありません多くの人が醜(しゅう・みにくい)と感じる対象のなかに美を感じとるひとだっています

人間以外の動物も「美しさ」を感じたりするのでしょうか鳥の求愛行動や飾り羽などを見るとそういう感覚はあるのかもしれないという気持ちになりますね現生人類とネアンデルタール人はある時期共存していたと言われていますところがその後ネアンデルタール人は絶滅してしまいました彼らの絶滅と現生人類の継続を分けた原因は何だったのでしょうか

それは「美」の概念だったのではないかという仮説があるそうです「美しさ」は多くの人にとって生きていくうえで必ずしも不可欠な概念ではないと考えられています現代では「美に現を抜かし」ているとむしろ生きていけなくさえなりそうですがそれが人類を絶滅から救ったとはどういうことでしょうか
 仮説は「きれいな貝殻の発見」から想起されました。。海からはるかに離れしかも食料的な意味もほとんどない小さくてきれいなだけの貝殻が現生人類の遺跡からはたくさん出土するのに近くにあるネアンデルタール人のそれからはまったく見つからないそれはなぜかというのです
 不要であるのに誰もがある種の「感動」を持つ誰もがそれを味わいたいそれは確かに「美」の概念と言えそうですそれを持つものと持たないものやがてそこに「象徴性」が生まれ「美」を持つものが権威を勝ち取り上下関係となりやがて社会としての構造を作ることにつながったからではないか。געזונט、それが仮説のおおよその内容です

「生きていくうえで不可欠ではない」?本当でしょうか?仮にいまある「美しさ」について上に述べたことがらの諸々をすべて剝ぎ取るとどういう世界が見えるでしょうかそういまウクライナ戦争で露わにされた世界たとえば激戦地といわれているバフムトの現状がまさにそうではないでしょうかあの風景が「不可欠なもの」を追求した結果なのでしょうか
 「美しさ」と声に出すとき心のどこかにある種の反感というか「世の中きれいごとだけじゃ済まされない」という大きな声も同時に聞こえてきて口にするのをちょっと躊躇してしまいますでもやっぱりそれを求める心を失ったとき人は戦争しか選択することができなくなってしまうそんな気がします美しさを求める心が辛うじて戦争を止めているそんな危うさを感じます「生きていくうえで本当に必要なもの」自分のこころを静かに覗き込む時それがおぼろげに見えてくるような気がしています