優先順位-1

「ざくろと眼鏡」水彩 F4

優先順位をつける必要がある人の多くは若く忙しい人だ現役引退するとかしてヒマを手にできた人は優先順位なんてつける必要ないやりたいことを思いつく順番にやっていけばいいしそれこそ “特権” だと思うヒマこそ人を幸せな気分にしそれぞれの人生に微細な味わいをつけるプラットフォームだむろん忙しい人もそうではあるけれど建築なら土台や壁設備と部屋のインテリア調度の違い車で言えば基本性能とマニアックなこだわりのような違いが忙しい人と暇な人との間にはあるような気がするヒマな人も大事だよという意味ですが

優先順位とは「その時点での重要度の順番」ということだから「その時点」が過ぎれば優先順位が一気に変わるのはごく当たり前のことデッドラインに一番差し迫った事柄から重要度が高まりやすい差し迫っているのに順位が高くならないならそれは直ちにリストから削除される急ぐ必要ない(急ぐべきではない)か不要だってことだからね

自由業たとえば芸術家はそういうものから外れた世界だと思っている人もいるかもね。אָבער、音楽家が勝手に一人で演奏してもそれで生きていくことはできない聴衆を集め何がしかのお金が得られるようにならなけばサッサと排除されてしまう
 芸術家にも優先順位はありますよヒマそうに見えてもそれほど暇じゃあない細かなデッドラインがいくつも積み重なっている点では「忙しいひと」と変わらない。נאָר、デッドラインをいくつクリアしても決して一区切りとはならず明日もまた自らデッドラインを引いていくのが自虐的といえば自虐的なのが違いかな(笑)

“アイデア” という “芸術” 

また「ざくろ」か・・ですか?(やや風化気味の紙に水彩)

“アイデア” は “芸術” に必要な要素ではあってもイコールで結ばれることには違和感を覚える人がいるのが当然だと思っていましたが現実はすでに「違和感など無い」ようなんです

「Art 」という語が本来持っていた「技術・職人」という語感からかなり遠ざかってしまっていますがここへきて発想とかアイデアというものが素材やテクニックも含めて一層大きく切り離されてきたと感じています
 単純な話「こんな絵を描きたい」というアイデアを「言葉にして」生成AIに話しかけるとたとえば油絵の知識も技術も素材・材料さえ無しに数分後には「作品」がパソコンの画面に生まれて(生成されて)きます絵そのものがまったく描けなくても鑑賞力など一切なくても構わないそうやって “生まれた” 作品にも絵画としての「著作権」が生じるというのですからストレートに「アイデア≒芸術」ということになったと言っていいでしょうここでは「言葉」が「絵画」の著作権を作っていることにわたし自身は違和感があります

“芸術家” というのは少なくともわたしにとっては特別な存在“でした”「でした」と過去形で言わざるを得ないというのも心情的にはかなり辛いのですがおそらくあと数年もすれば「言葉が話せる人=芸術家」という環境になると想像しますわたしだけでなく多くの人にとっても“芸術家” は今でも憧れの一つでしょうそれが何の知識も経験もなく子どもでも使えるアプリケーションだけで堂々と「著作権」のある「作品」を持つ「作家」になれるんですから誰でも一度はなりたいですよねたった数分で作品が出来しかもお金も時間もかからず身体的にも疲労する間さえありません
 「芸術家」にとって「アイデア」はかつては努力と才能を絞り出したそれ自体ひとつの “結晶” のようなものでした長い鍛錬と研究で培われた技術がアイデアに繊細な肉付けをしさらに幸運の女神が舞い降りて初めて芸術作品が成り立つようなものでしたそうやって育ってきた稀有の「天才」に「誰でもなれる」ようにするために数世紀にわたって様々な発想法が考えられコンピューターの発達がそれを加速しとうとう生成AIに到達しました

 あなたもAIを手にしたたった今から堂々とした「芸術家」になれます(もしかしたらすでに「芸術家」でしょうか)あなたのまだ小さいお子さんもすでに天才芸術家ですもちろんお隣もその隣も一緒なんですが町内全部市全部県内国内だけでなくそう世界中「天才」だらけの世になったんですDNAも師匠も切磋琢磨する仲間も不要ですアルキメデスのような “数分野かけもち” の天才もそこら中にいますなんと喜ばしい世の中になったんでしょうか!!
 できるだけ多く深いアイデアを生み出すための方法論もデカルトなど多くの天才たちによって考えられ工夫されてきました彼らの方法論もまた名著として伝えられてきました画期的な新しい発想をすること自体がとても貴重で難しかったからです
 でもそんなのももう読む必要なくなったんですねたぶん喜ばしいことです今は「コミュニケーション」の時代「独創的」より「皆と同じ」「共感できる」発想が尊ばれる環境です“他にはない” というアイデア自体が不要になってきたってことなんでしょうね

三者三様

T・U さん
H・Kさん(修正前)
K・Sさん

水曜油絵クラスの作品です三人しかいませんが三人ともそれぞれ個性的で良いと思います上手に描くより自分の内面により近いことを表現(するつもりはなくても)しているのが素敵だと思っています

Tさんの場合本人曰く「ここからどう進めたらいいでしょうか?」わたし「もうこれ以上描くところはないよ」まだ描き始めたばかりで本人はこれから描き込んでいくつもりでいたらしいのでちょっと拍子抜けした感じだったでしょう
 実際作品を拡大して見て頂ければ解りますがのびのびしたタッチと気負わない色彩とがマッチして絶妙の状態になっています。אָבער、説明要素が非常に少ないので具体的にどんな木なのかどんな草むらなのかは観る側の想像力次第になっています「枝のない木」ではなく「あなたが枝をつけてみてください」と言っているわけですねあなたがすべてお膳に調えられたご馳走を喜ぶ人か多少は自分でアレンジできる味わいを好むひとかでこの作品の評価はまったく変わります評価に迎合しない選択がこの作品です

絵画ではたとえば1個のりんごをモチーフに描く場合①そのリンゴがどういう種類状態であるかを描写することで作者の技量などをアピールする ②そのリンゴを作者がどうとらえたのか作者の感受性を主体に表現する の2通りがある(そのどちらが正解ということはできない)①はどちらかといえば古典的伝統的なものの見方考え方であり②はより現代的な表現思考に属するという考え方が一般的です
 わたしの絵画指向は基本的に②でそのうえでわたしにとっての絵画とは「画面の表面だけで」新しい世界像を作り上げることですというとやたら大言壮語に聞こえてしまうけれどそうではなく画面上の絵の具の発色とかタッチそのものが絵画の本質ですよということですまた「表面だけで」という意味は「作者の内面やプロセス」などどうでもいいということではなく発色のことを考えたり色の選択や筆の動きにすでに作者の経験・思考や身心の状態が反映されているという意味です
 と同時に画面という視覚の完結性についても述べたものです世間的に立派な人が描いたことと絵画性とは無関係だと言っているだけのことですが(特に日本の)マスメディアなどはむしろこちらの方にこだわりますから注意が必要です古典絵画の巨匠カラバッジョは殺人犯としていわば指名手配され逃走しながら名画を描き残しているのですが日本のマスメディアなら「殺人犯」という時点で絵画の業績などは一顧もされなくなってしまうでしょうそれとこれとは別という単純なことなんですが
 ①②いずれを選択するかは単に意思の問題だけではなく本人の成長過程での社会的環境や個人的な関心や嗜好生理的条件など様々な要因が絡み①から②へ変わったりその逆になったりすることも例を挙げるに困りません

 H・Kさんの作品は具体的で何が描いてあるかは誰でも解ります。אָבער、何が描いてあるかは重要なことではなくこの全体を通してH・Kさんの特別な「静けさ」を感じて貰えればいいのですユリの種類だの遠近法がどうだのと言っているようではそこへはたどり着けませんそういう説明をスパッと捨てていることが「経験の力」なのです
 K・Sさんの作品は枯れかけた草むらの一隅をクローズアップしたような画面ですそのまま描いたようなまたは抽象化されたようなどちらとも言い難い画面ですね具体的ありふれたなものも見る距離や見方が違えばこれまでと違う世界が現れてくると作者は感じ考えているわけですねその感じ方考え方をできるだけ簡潔に表現するとしたらあなたはこういう表現法以外にどうしますか?と見る人に(自分自身にも)問いかけてもいるわけですね
 そういうことが意識化されているという意味で、3点ともかなり高次元の作品だとわたしは思っています残念なことは作品が高次元になればなるほど一般の人から離れ評価を失っていくのが現状ですいたるところで素晴らしい感性を示す日本人なのに芸術などに関しての国民的な教養がそれに釣りあっていないと日々感じています個々の力ではどうすることもできません