
銀座から京橋、日本橋とゆっくり歩いていく。早く歩くと汗をかき、汗をかくと風邪を引くからという単純な理由。これは京橋のあたりか。
11月も半ばを過ぎると、朝夕はさすがに涼しいというより少し寒さ感じるようになってきた。寒さは身体にはこたえるが、自分の季節だなあという気持ちになる。夏より冬が好きだ。
展覧会も終わった。新年の予定も何もない。新しい作品は完成近くでずっと足踏み状態。気持を切替えればすっと終了する気がする。銀杏も黄色くなってきた。
銀座から京橋、日本橋とゆっくり歩いていく。早く歩くと汗をかき、汗をかくと風邪を引くからという単純な理由。これは京橋のあたりか。
11月も半ばを過ぎると、朝夕はさすがに涼しいというより少し寒さ感じるようになってきた。寒さは身体にはこたえるが、自分の季節だなあという気持ちになる。夏より冬が好きだ。
展覧会も終わった。新年の予定も何もない。新しい作品は完成近くでずっと足踏み状態。気持を切替えればすっと終了する気がする。銀杏も黄色くなってきた。
作品を発表することには、出品者それぞれにそれぞれの意味がある。それも、年齢などの身体状況など様々の個人事情、生活や周辺の人間的な環境などによっても、その意味はさらに変化する。
このグループ展も5回目の区切りを終わった。今後のことは話し合うが、いずれにせよ現在のまま続くことはない。แต่、このグループ展での発表を止めても、絵を描くことを止める人は誰もいない。
発表の場と、その人の発表する意味とは次元の違う問題だ。団体展と違い、話し合いでも、飲み会でも、そのことに触れる人はいない。皆一線を引いている。それがお互いを尊重するということ。5年間暗黙にそれができていた。よいグループ展だったと思う理由である。
川越・ギャラリー・ユニコンで斎藤典久さんの個展を見た。とても良い個展だった。作品が優れているかどうかは私には判らないが、少なくとも作者と作品が一致するというか、その人らしさが作品にしっかり流れていて、そういうことが私にとっての価値観であるという意味で、良い個展だと思った。
それに引き換え、私の東京・銀座で発表した作品は単なる思いつきの底の浅い、いい加減な、薄っぺらなものに見える。และ、確かに思いつきで、底が浅く、いい加減で、薄っぺらなのが私自身なのだ。そういう意味では私も言行一致だが、悪い方の言行一致ではどうしようもない。
私は最近、発表することの意味を失いかけている。おそらくこれからも、たとえ手が動かなくなっても(それがパソコンになろうと)、それが他人にどう思われようと、私は絵は描き続ける筈だ。絵を描く以上の楽しみなど、この世にあろうとは思われないから。แต่、何のために発表するのか、という問いに対する答えはそれほど明確でなくなってきた。他人に評価されたいなどとはもう考えてもいない。それより、誰に見せるつもりでもなく、無心に描いていた原点に戻りたい気持が強くなってきた。