A pesar de、とりあえず終了することができました。ゴールにたどり着くことはマラソンと同じように大切なことです。ゴールして初めて、あそこがダメ、ここがいい、次はこうしてみようと冷静に見ることができるようになります。途中で放棄してしまう場合よりはるかに多くを知ることができます。ゴール地点の高みから、スタート以前からの全体を俯瞰することができるようになるからですね。放棄する場合でも、いったんゴールまでのご褒美を受け取っているので、悔いなく処理することができるのです。終了した直後から、次の絵を発想、スタートすることができました(現在制作中)♪
かつては文書と言えば手書きしかありませんでした。creo que es una imagen、中には個性的過ぎて読めないものもあったりします。日蓮上人の手紙などを博物館で見たことがありますが、一目で、良くも悪くも「この人は普通の人ではない」と思わせるほどの強烈な書きぶりに驚きました。一般の人が文字でやり取りするようになると、当然判読しにくいものも増えてきたでしょう。 文字の美しさや、その人らしさを犠牲にしても、「読みやすさ」を優先してタイプライターが発明され、やがてワープロになり、現在はスマートフォンのボタンどころか音声をきちんと聞き取り、きれいな文字にして送信してくれます。 Pero、一方で人間は画一性を嫌う生き物でもあります。たとえばその、フォント。読みやすい、使いやすいだけなら1種類だけですべて済みそうなものですが、あきれるほどたくさんの種類があり、ほとんどの人は時と場面によってそれらを自在に使い分けています。それは感情を伝えようとする本能からくるのでしょう。人間はコミュニケーションをとることで文明を築き上げてきたのですし、そのコミュニケーションのもとは「共感」なのですから、ある意味当然のことでもあります。
al final、コンピューターを使っても、その一分野だけ、たとえばグラフィックアートならそこだけ。そこに特化して「使いこなせ」るようになり、初めて「最後はその人らしさ」と言えるだけではないでしょうか。「コンピューターで自分の世界が広がる」は、一種の幻想ではないのでしょうか。自分が知らなかった、できなかったことをコンピューターで知ることができ、やることができる。その意味では確かに「自分の世界が」広がったように感じるでしょう。pero、それ以外のところではむしろさらに谷は深くなり、断絶は厳しくなってくるのではないでしょうか。「その人らしさ」の伝わる分野は一層狭くなり、時には極大化されて、「その人らしくない」その人らしさが広がっていくのではないでしょうか。