
お金を賭けるだけでなく、「人生を賭ける」「命を賭ける」という極端な経験をする人はどのくらいいるだろうか。1%か、もっと少なく0.001%くらいかと思ったが、よくよく考えてみるとほぼ100%の人が、実は経験するのではなかろうか、と思い至った。
たとえば結婚。ある程度納得のいく情報交換、プロセスを経て結婚に至るとしても、「他人は他人」。相手について知り得たことより、知らないことの方がはるかに多いはずであるが、どこかで「えいやっ」と決断する。y、基本的には一生を共にするのだから、まさに「人生を賭ける」といっても決して過言ではない。特に地方にあって、長男である夫の家に嫁ぐ(“とつぐ”という言葉自体がその内容を示しているが)女性においては「清水の舞台から飛び降りる」以上の決断だと思う。わたしのようなヘナヘナ人間には、その決断力だけでも驚嘆に値する。
朝起きて、ご飯を作り、食べ、会社や学校へ行く。帰宅帰りにスーパーで買い物をして晩ごはんを作り、食べ、洗い物をする。明日のためには、もう風呂に入って寝るしかない。そんな“日常”さえ突然断ち切られたりすることがあるのは、ニュースなど聞かずともそこら中に満ちあふれている。「それは特別な場合でしょう?」と思う人が多いのは、それだけ「人間」に「文化」がある証拠なので嬉しいことではあるが、(人間以外の)動物ではそうはいかない。子育て中の母親が、エサを探しに行く途中で他の動物のエサにされてしまうことは「自然の一部」。それが「日常」なのだから、少なくとも(人間以外の)動物においては「毎日が命がけ」は現実そのものに違いない。
pero、動物にとっての「命がけ」は「賭け」ではない。いかに命がけであろうと、それは「日常」である。「賭け」には、それを「賭ける」意識が必要だ。失敗したら何かを失うが、その何かと賭けるものとの「差額」のような意識がなければ、それは賭けではない。つまり「リスクの意識」の有無である。リスクと利益の計算を、一定の根拠に基づいて行動に移すこと。それが「賭け」だとしたら、人間なら、生まれてこのかた、ずっと賭け人生だと言ってよいのではないか。違いがあるのは根拠の確かさと失敗したときの覚悟だけ。tal vez、その覚悟の有無だけを人は賭けと呼んでいるのかもしれないが。