みんな絵を描こうよ!

木立ベゴニア‐下描き

いつ以来かもう忘れるほど実に久しぶりに東京へ出かけた銀座での知人の個展と秋の美術展を六本木の国立新美術館へここまで不義理の連続義理と人情を重んじる渡世人ならすでに100回は腹を切らなくちゃならなかったずたずたどころか小間切れだ

銀座4丁目交差点に出るとわあ人が一杯いると最初は感じたが落ち着いてみるとやはり相当に少ない美術館のロビーは普段は平日でも人で一杯なのに今はガラガラガラス壁に沿って置かれていた椅子も大分間引かれて換気のいい戸外のテラスに配置されている館内も異様なほど静か

今日は行動美術展と新制作協会展出品されている絵はいつもの感じと同じような気がするが例年以上に亡くなった会員の数が多かった享年を見ると高齢者だけでなく、40代とか若い人も結構いるじわじわとコロナのストレスが影響しているのかも知れないいずれ新型コロナと人間のあいだもお互いに慣れてきて毎年一定の犠牲を祭壇に供えるように落ち着いていくのだろうがそれでも新型コロナ以前の状態に戻ることはもう絶対にない苦しくはあっても少し長い目で見れば人類の進化の一コマに過ぎないのだろう

数十億年後の太陽系では太陽が死を迎えるらしいつまり太陽系が消滅するそんな遠い未来に人類どころか生命などというものが存在しているかどうかさえわからないがとにかくその時点では地球も当然消滅しているという人類がどんなに高度な文化を築こうとそこではすべてが太陽と一つになって灰となる(元素に還る)では究極的にはすべては無駄なのかと言えばそんなことはない生きていることと死んでいることに大差ないと(哲学的に?)考えればそれだけ今を自由に生きる方がオトクということになる。אז、みんなくよくよせずに絵を描こうよ

腐っても鯛

鯛のカブト焼き

「腐っても鯛」という言葉が今も(本来の意味通りに)使われているかどうか甚だ心もとない「鯛は腐りやすい」とか「鯛は高級魚なのでもったいないから腐っても食べる」という意味だという珍答(怪答?)をどこかで見た記憶があるからである

「腐っても鯛」を辞書で引くと「本来高い価値を持つものは多少悪くなっても品格がある」というほどの意味だとある少し前になるが「武士の一分(いちぶん)」という映画があった(藤沢周平原作山田洋次監督)武士にとっては屈辱的というほどの仕事をさせられてはいても心の中の武士の魂は失わないという男の姿を描いていたが最近そういう心情がやっぱり大切だと思っている

特に芸術と呼ばれるものには高い価値観が不可欠ではないか「お高くとまる」などと揶揄されることも多いがそれなりの品格を秘めたものからでなければ深い感動は得られないという気がする一見ゲテモノ風であったりエロティックあるいは子どもじみた風貌であってもある種の気高い鋭さというか底光りする輝きというかそういうものを求め内蔵していないものは結局本物ではないそれに気づき磨き身につけた人だけがそこにたどり着けるもののような気がするけれどもそこに至ったとしても気づかない人々にとっては「腐った鯛」に過ぎないかも知れない

わたしは鯛が好きである腐った鯛はもちろん食べない刺身もいいがどちらかと言えば頭カブトの方が好きである面倒だからお吸い物にはしないひたすら単純なカブトの塩焼き専門であるそして目玉から食べる刺身は一つの味しかなくそれもワサビと醤油のレベルに左右されるが頭には数十種類の異なる味触感があり刺身の比ではないそしてそのいかつい顔に似合わない上品な味丁寧に鱗を取り上手に焼けばその皮もまた味わい深いまさに腐っても鯛なのであるが食べるには少しでも鮮度の良いカブトを選ぶのがよい

人生の絵

           Oさんの作品「無限」2021      F30 アクリル

青いカモメ展が始まった初日悲しい知らせが会場にいるわたしにひっそりと届いた

5日前の午後予定の時間よりだいぶ遅れて公民館2階の絵画教室に彼女の絵が届いたでも本人がいない聞くと1階には来ているという絵を運んできたのは公民館の職員なんでだろうと思っているとその人が車椅子がどうこうとか呟いた誰が車椅子?と思っているうちに本人が来た「階段がきつくて」登れず遅くなったという心臓が悪いのだ肩で息をしている

こんな時になんで無理して持ってくるんだ休まなくっちゃとわたしは言ったがどうしても見てもらいたかったと言う絵が届いたとき最初の一瞥で彼女のこれまでで一番の絵だと思っていたのでそう告げた「少し修正するとすればここ」と欠点とも言えないような小さな点を指摘した。למה אנשים לומדים、今やらなくてもいいまずは体を大事にして休まなくちゃと付け加えたがまさかそれが最後の会話になるとは思っていなかった

作品の配置計画を考えているときわたしは彼女の絵を目立つところに置こうと決めていたもちろんどこにおいても目立つ絵ではあったが同じように悩みながら描いている仲間にこんなふうにのびのび描けばいいんだよと彼女の絵を通じてメッセージを送りたいと考えたからだある意味で彼女は今のわたし自身の絵に対する問題の一部を肩代わりしてくれていた線と面の関係それらと色の関係という造形性の問題そしてそれと「作者個人」を結び付けるというまったく次元の異なるでも芸術にとって避けて通れない課題に対する追及を彼女はわたしと同じゴールを目指して進めてくれていたたぶん彼女自身もそう感じていたと思うそれはある意味で楽しくもあったろうが結構きつくもあったに違いない。וזה、わたしより一歩先に見事な答えを出してくれた

残念という言葉ではたりない時間が経つにつれてだんだん喪失感が深くなってくるがそう思いながらも半分くらいはまだ何かの間違いではないかという気持ちが拭い去れない次の絵その次の絵も見せてもらいたかった彼女はこのブログもよく読んでくれて時々感想も聞かせてくれたそれを聞きながら次のブログで関連したことを書いたりそれに関わる絵を載せたことも何度かある絵を見るとそんなこまごましたことも含め彼女の人生がすべてそこに描かれてあるような気がする