더운 여름

「Apple」20 년 8 월 20 일

역시 사이타마 여름은 더운。예년、8 월은 차가운 시모 키타 반도에서 지내고 있었기 때문에、오랜만에 사이타마 여름을 겪고있는。시모 키타 반도는 10도 ~ 15도 정도 다르기 때문에、1 개월 정도 롱 가지고 집중하고 뭔가 하는것은 좋은 기후이다 (참고로 오늘 8 월 21 일、사이타마 현 하 토야마 마치에서는 39.4 ° 이었지만、시모 키타에서 23 °)。

처음에는 피곤 정도로 덥고 느꼈지만、보름 정도 지나면 익숙해진다。그래도 "위험한 정도의 더위"하루、窓や雨戸に当たる日差しが厳しい。집 앞을 허리 굽은 할아버지、할머니가 쇼핑 카트를 누른 상태에서 몇몇 통과。"아무것도 이런 더운 시간에 가지 않아도 끊어"라고 생각하지만、朝早くは店が開いてないし夕方は混みあう。눈도 나 빠지고 있기 때문 주간 더 안전한 것이라고 상상、고통 생각이 든다。

익숙해지면 여러 번까지、쿨러없이 정상적으로 작동 할 수 있는지 등、무의미한 관심이 솟아 할。그런 참는 시간이 있으면、일 수、공부 마자하는 것이 유리한 것은 확실。그런 것을 생각할수록、얼빠진으로 오는。

온라인에서 알게 된 사실

「Apple-man」2020

4ヶ月かかったオンラインでの仕事が一区切りそれを経験してわかったことがいくつかある順不同で思いつくままに並べてみると
①オンラインだけでできる仕事が想像していた以上にあること
②対面が不可欠なことでもオンラインと併用するとより効果的になり得ること
③オンラインでは思考の流れが論理的になる傾向があること
④コロナ禍が一段落してもオンライン化は不可逆的であること
等々

コロナがあるなしに関わらずオンライン化は必至だったが少なくとも日本ではコロナ禍によってその流れが数年早くなったことは確かだ今日ニュースで日本のGDPがこの3ヶ月で27.8%下がったと聞いた。하지만、オンライン化が加速されたことは将来への一種の投資のようなものでその効果は無駄ではないと思うむしろこれを機会にGO TOキャンペーンなどくだらないことに貴重な財源を使うより小中高生たち教員のすべてにパソコンを1台ずつ確実に配り(一部実施されてきているらしいが)配るだけでなく教職員へのサポートチームも積極的に派遣し学校教育のオンライン化を強力に推し進めたほうがいいと感じた

先生も生徒・学生たちも中小企業もフリーランスも官公署も急なオンライン化への対処に確かに大変だったと思う私自身も経験したのでその大変さは理解できるがそれなりに慣れてきたようにも見えるここで気を緩めず日本全体をもう少しレベルアップしたらいい

オンライン化で人間が要らなくなるとかそういう話ではないむしろ逆で例えば小中学校での科目内容などを子ども自身が選択勉強できるように一定の基準で配信する子どもは自分で進度を決め採点などもオンラインでやる同じクラスにいて同じ科目を学びながら興味に応じて違う教材を選ぶ理解度の採点はあるが隣の子と競争するわけではない通信簿などは無意味になり先生は子どもたちを見る時間に余裕が生まれるそこにオンラインのワンステップ上の可能性があると実感したもちろん現段階ではむしろ逆でまだまだ対応に追われている状態だがサポートがしっかり構築され先生も生徒も親もそれに慣れてくるまでの辛抱だと思うコロナ禍が終息し元に戻ってはせっかくのチャンスを失ってしまうどちらへ進むか今が大事なターニングポイントだと思う

8月15日は「敗戦記念日」

「アスレチック・フィールド」2020 テンペラ F10

「敗戦記念日」と書けば必ずクレームがあるらしいそれだけで「反日」というレッテルが貼られたりする昨今だ「負け」という語にはそれだけのインパクトがある日本人は(多分他の国も大同小異だと思うが)「負けず嫌い」という言葉が好きだ

「ハルウララ」という競走馬をご存知だろうか?主に高知競馬場を舞台にしたが戦績は113連敗(0勝)生涯獲得賞金は112万9000円一勝もできなかったが連敗ゆえにある種のブームを巻き起こし、2016年にはアメリカ映画にもなったそうだ連敗し続けてもなお毎回必死に走る姿が「負けず嫌い」の心をくすぐったのだろう

敗者になることによって初めてその人の人格や思想が現れると私は考えているその意味で人は誰でも負ける経験が必要だ負けることを知らない人間を私は信用することはできない「負ける」ことで初めて本当の「知恵」が人に現れるとも思う立派な負け方美しい負け方というものはある単純な例が高校野球勝者以上に「輝かしい」敗者の例は枚挙にいとまがない

それに単純に比較することはできないが先の対戦での日本の負け方はぶざまであったそれは物量以前に思想が貧しかったからだしそのことを戦後の現在も理解しようとしないことがそのそのぶざまをさらに拡大し続けている敗戦を「敗戦」とすることでその全体像を記録しきちんと正面から向き合わない限り人間らしい「意味のある負け方」を獲得することはいつまでもできないと思う「負けず嫌い」もその上にたってこそ美しいのである