多数という暴力

プロミネンスの夕焼けまるでこの世の終わりのよう (2021/06/21)

美術展の審査というのがある世間(日本?)の「常識」では芸術家というのは「非常識」な人が多いらしく少し遠慮して「変わった人」とかいわれている。kama、そのような常識が正しいならそんな人たちが選んだ作品を常識ある人々が納得顔にうなづいている風景は滑稽そのものだ
 少し規模の大きな美術展になると審査に美術家がまったくいないことさえ過去にはあった知り合いの画家をえこひいきするのではないかと世間に思われないようにという配慮からかと「邪推」するが(それがなぜ美術家だけにあると思うのか分からないが)小説家評論家美術館の館長か学芸員ときにはそれに政治家が加わる
 審査結果(の文章)はもっともらしいが何を見ているのかわたしなら簡単に信用することはできないもちろん小説家や政治家に絵が判るはずはないなどと非常識なことをいうつもりはないがそのことに抗議しても無駄である非常識な美術家の意見など多数派になれないからである

 多数派が常に正しいかと言われればそんなことはないと多くの人はいう。lakini、「でも」と続く「でも多くの場合正しいんじゃない?」この場合「正しい」という語と「常識的」とはきわめて近い位置に在るとわたしは思う
 常識とは時と場所によっては非常識である比較的近年まで日本では道端での立小便は「常識」であったものの本によると江戸時代では大人の女性でもそうであったらしい時代劇を見るとよく家の壁にたくさんの竹の棒が立てかけてあるそこにできる三角形の空間が一種の臨時トイレとして利用されていたらしい小さなノズルで肛門まで自動的に洗うようになったこの国でである
 立小便が常識だったからそれを禁止する法律や教育で「正しさ」を「多数にする」ことが必要になったのだった

多数派工作とは自分(たち)の考えが正しいことを数で示そうとして賛成してくれるよう他人に働きかけることわたしたちは小学生の頃から例えば学級会などでも多数決でいろんなことを決めてきた多数派の意見が採用されるわけだから考えがある人はそれを論じて他人を説得し自分の意見アイデアに賛成してもらうつまり多数派を形成しようとするわけだあるいはその意見に与することで多数派の傘の下に入ろうとするそれをどこかで民主主義という語に半分くらいすり替えられて教わってきたのだが実は「数は力」という「実力行使の別の顔」の使い方を繰り返し学習してきたのだった

 「でも多くの場合正しいんじゃない?」とやっぱりわたしも思いそれに従ってきたしかし最近は「多数」とか「常識」ということを脅威に感じるようになってきた
 芸術の世界では「個」以外に存在の価値はない(そもそも芸術家と自認する画家などいないのだが)。100人の画家がいてもみんな同じなどと考えている画家はいない。ndiyo maana、「多数という実力行使」=暴力にはまったく無力であるそのことはコロナ禍にあって際立ってきたがことの本質はコロナがあろうとなかろうと「多数が正しい」と信じる一種のカルト宗教が世間を支配していることに気がつかないか気づかないふりをして多数派でいようとしている人々が圧倒的多数だという現実である