80回目の楽しみ

スケッチの楽しみ方に似ているようだ

俳句を始めて数年になる毎月1回の句会も昨日で80回になった途中で自分なりの工夫を凝らした時期もあったが概ね惰性でかつ句会前日の「ねつ造俳句」が今もほとんど反省

17文字がやはり窮屈だと感じることが最近ある(無季の俳句もあるが)俳句の基本的理解としては一句にひとつの季語を入れることになっている基本リズムは五これを上(かみ)中(なか)下(しも)と呼ぶなら多くは上か下かに季語が入りその繋ぎでたいてい5文字を消費する

残りは12文字だがリズム上の制約があり使える単語が絞られてくるだから類想類句が多くなる。Badala、そうせざるを得なくなってくる

lakini、絵画における色の数より単語の数は多い色数の限られた絵画のイマジネーションが尽きることのないように俳句もまた一語一字の選択や配置などによって伝わる内容も微妙に変化する(ようだ)こう書くと職人的な楽しみ方しかないように聞こえるがそうでもない

Naam basi、俳句は本当に楽しいのかと聞かれるとどうもよく分からないねつ造もそれなりの苦しさがあるからやめても良さそうに思えるがあえて止めもしない。labda、どこかに何らかの自己満足感があり本当の楽しさといえばそれで十分なのかもしれない

フランスの国鉄ストライキ

「或る軌跡」習作

Peel ya machungwa、Peel ya machungwa。Peel ya machungwa、Peel ya machungwa。

Haiwezekani huko Japani。Haiwezekani huko Japani。Haiwezekani huko Japani、Haiwezekani huko Japani、Haiwezekani huko Japani。Haiwezekani huko Japani。

3Haiwezekani huko Japani、Mgomo mrefu kama huo "unaruhusiwa nchini Ufaransa"、Mgomo mrefu kama huo "unaruhusiwa nchini Ufaransa"、Mgomo mrefu kama huo "unaruhusiwa nchini Ufaransa"。

Mgomo mrefu kama huo "unaruhusiwa nchini Ufaransa"。Mgomo mrefu kama huo "unaruhusiwa nchini Ufaransa"。Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".。Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".、Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".、Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".、Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".、Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".、Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".、Hapo awali, ni ukinzani kama vile "mgomo ambao hausumbui watu".。Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo。Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo、Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo。Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo、Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo。

Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo、Tofauti na Wafaransa inaonekana hapo

Island ・浮かぶ男

「虫の目」とは人が見逃してしまいそうなあるいは無視してしまいそうな一見雑多な現象に見える事柄の中に普遍的な価値や真実を探究する目や姿勢のこと「鳥の目」とは高い広いところから小さな目先の木や水溜りに捉われず遠くの大きな森や広い沼や湖を見つけるようにものの重要性や緊急性などを比較できる目の喩えである

一人の人間にとってどちらも一定程度必要であるにも拘らずほとんどの人はどちらか一方に偏りがちであるに違いないけれどもそれで困るかと言えば案外に困った風にも見えない。badala yake、むしろ一方を非難する場合さえ決して少なくはなさそうだ

常識的に考えればどちらもほどほどという中間派が最大数になりそうだが果たしてそれでいいだろうか「目」という同じ語に騙されてまっすぐな線の両端のように同じ次元に置いてしまっているがそもそも比べられるものなのか。Kwa njia、数学的に言えば線というものには端がないいわゆる極端がない以上どこをとっても中間としか言いようがない

Rudi kwenye mada。大雑把に言って政治家に必要なのはどちらかと言えば鳥の目ではないか「大所高所の見地から」という言葉は政治家の大好きな言葉の一つだが昨今は大小高低さえわかるかどうかも怪しいものだ。Zaidi、多くの人が見えているものにもまた気づかないこういう退化した目を持つ動物を何と呼べばいいのだろうか決してモグラなどと言ってはいけないそれではモグラが可哀想だ