
絵を描くことは気持ちいい。一度中断を経ると、あらためて神経が春の草木の芽のように広がって行くのを感じる。
ある人は身体を揺するだろう。それがダンス。ある人は思わず声を出すだろう、それが歌であり、詩なのかも知れない。絵もダンスに近い。身体から萌え出る何かが、色を選び、形をとるのが絵なのだと、つい感情的に結論づけたくなってしまう。dar、とりあえず、再び一歩踏み止まって、深呼吸することにしよう。
一呼吸したら、もう自由だ。その時心の中にあるものが、だれにとっても大事なことだ、きっと。
絵を描くことは気持ちいい。一度中断を経ると、あらためて神経が春の草木の芽のように広がって行くのを感じる。
ある人は身体を揺するだろう。それがダンス。ある人は思わず声を出すだろう、それが歌であり、詩なのかも知れない。絵もダンスに近い。身体から萌え出る何かが、色を選び、形をとるのが絵なのだと、つい感情的に結論づけたくなってしまう。dar、とりあえず、再び一歩踏み止まって、深呼吸することにしよう。
一呼吸したら、もう自由だ。その時心の中にあるものが、だれにとっても大事なことだ、きっと。
3/2〜3/7まで葬儀への出席と手伝いに行ってきた。葬儀のことを見、主催し、手伝ってみて、つくづく重荷だなあと思う。
親の死を子が看取り、生前の恩に感謝して立派な葬式をするのが子の務め、なんだろうか?葬儀の経験をすればするほど、そうは思えなくなってくる。そういう言葉を、他人に見える形にするためだけに、体も心も経済的にも疲れ切ってしまっているのではないか。
どんなに小さな規模にしても、葬儀屋に依頼しての仏教式の葬儀なら、あれこれ入れて100万円近くは必ずかかってしまう。しかも慌ただしく、死を哀しむいとまなど全くない。あとから虚しさとお金の負担だけがずしりとのしかかってくる。日本全体で見たら、恐ろしいほどの(無駄遣いとまでは言わないが)重荷に違いない。本当にこれが、遺された子の、家族の受けるべき務めなんだろうか。病気で長く入院などしていたら、なおのことその負担は重い。
自分が死んだ時は、せめて子の負担にならないように質素にして欲しい、あるいはその前に自ら消えてしまいたい、と考える人は多いのではないか。せめて、そのお金を子やその家族の為に使って欲しいと思う人が多いのではないか。自分の葬式代位遺せますという人も、もちろんたくさんいるだろうが、私ならそのお金を元気なうちに遣ってあげたい気がしてならない。
怖い夢を見た。亀の子タワシのお化けみたいなやつが、円形のテーブルの上を這いまわりながら喋っている。「お前たちは私を消去することはできない」。スマホでワンクリック、消去することはできた。
何が怖い夢かというと、彼らが勝手に私たちのスマホの中に入り込むばかりか、そこから自由に現実の中に飛び出して来れることだ。スマホの中で増殖し、そこから続々と現実の中で暴れまわる。și、実際に彼らの言うとおり、やがて消去できなくなる。
そのうえ、もっと怖いのは彼らがスマホやパソコンを熟知しているらしいこと。そこから生まれたのだから当然といえば当然。手足の数もムカデの比ではない。あの手にそれぞれスマホを持たれたら、悪魔の千手観音ではないか。さらに、生まれてくるのが亀の子タワシとは限らないとしたら。