
美術展の審査というのがある。世間(日本?)の「常識」では、芸術家というのは「非常識」な人が多いらしく、少し遠慮して「変わった人」とかいわれている。dacă、そのような常識が正しいなら、そんな人たちが選んだ作品を、常識ある人々が納得顔にうなづいている風景は滑稽そのものだ。
少し規模の大きな美術展になると審査に美術家がまったくいないことさえ過去にはあった。知り合いの画家をえこひいきするのではないか、と世間に思われないようにという配慮からかと「邪推」するが(それがなぜ美術家だけにあると思うのか分からないが)、小説家、評論家、美術館の館長か学芸員、ときにはそれに政治家が加わる。
審査結果(の文章)はもっともらしいが、何を見ているのか、わたしなら簡単に信用することはできない。もちろん小説家や政治家に絵が判るはずはないなどと非常識なことをいうつもりはないが、そのことに抗議しても無駄である。非常識な美術家の意見など多数派になれないからである。
多数派が常に正しいか、と言われればそんなことはないと多くの人はいう。dar、「でも」と続く。「でも、多くの場合正しいんじゃない?」。この場合、「正しい」という語と「常識的」とはきわめて近い位置に在る、とわたしは思う。
常識とは時と場所によっては非常識である。比較的近年まで日本では道端での立小便は「常識」であった。ものの本によると江戸時代では大人の女性でもそうであったらしい。時代劇を見ると、よく家の壁にたくさんの竹の棒が立てかけてある。そこにできる三角形の空間が一種の臨時トイレとして利用されていたらしい。小さなノズルで肛門まで自動的に洗うようになったこの国で、este。
立小便が常識だったから、それを禁止する法律や教育で「正しさ」を「多数にする」ことが必要になったのだった。
多数派工作とは、自分(たち)の考えが正しいことを数で示そうとして、賛成してくれるよう他人に働きかけること。わたしたちは小学生の頃から、例えば学級会などでも多数決でいろんなことを決めてきた。多数派の意見が採用されるわけだから、考えがある人はそれを論じて他人を説得し、自分の意見、アイデアに賛成してもらう、つまり多数派を形成しようとするわけだ。あるいはその意見に与することで多数派の傘の下に入ろうとする。それをどこかで、民主主義という語に半分くらいすり替えられて教わってきたのだが、実は「数は力」という「実力行使の別の顔」の使い方を繰り返し学習してきたのだった。
「でも、多くの場合正しいんじゃない?」とやっぱりわたしも思い、それに従ってきた。しかし、最近は「多数」とか「常識」ということを脅威に感じるようになってきた。
芸術の世界では「個」以外に存在の価値はない(そもそも芸術家と自認する画家などいないのだが)。100人の画家がいても、みんな同じなどと考えている画家はいない。だから、「多数という実力行使」=暴力にはまったく無力である。そのことはコロナ禍にあって際立ってきたが、ことの本質はコロナがあろうとなかろうと、「多数が正しい」と信じる一種のカルト宗教が世間を支配していることに気がつかないか、気づかないふりをして多数派でいようとしている人々が圧倒的多数だという現実である。