8El dia 15 del mes és el "Dia de la memòria de la derrota"。

"Camp d'Athletic" 2020 Tempera F10

Si escrius "Dia de la derrota"、Sembla que sempre hi haurà queixes。Avui en dia, només fer-ho pot fer-vos etiquetar com a "antijaponès".。La paraula "perdre" té molt d'impacte.。Als japonesos (i crec que probablement també passa el mateix en altres països) els agrada la frase "odio perdre".。

「ハルウララ」という競走馬をご存知だろうか?主に高知競馬場を舞台にしたが戦績は113連敗(0勝)生涯獲得賞金は112万9000円一勝もできなかったが連敗ゆえにある種のブームを巻き起こし、2016年にはアメリカ映画にもなったそうだ連敗し続けてもなお、La visió d'ell corrent desesperada cada cop devia fer pessigolles al seu esperit competitiu.。

en ser un perdedor、Quan la personalitat i els pensaments d'una persona apareixen per primera vegada、estic pensant。En aquest sentit、Tothom necessita l'experiència de perdre。Una persona que no sap perdre、no puc confiar。Per "perdre"、També crec que la veritable "saviesa" apareix a la gent per primera vegada.。Una gran manera de perdre、Hi ha una manera bonica de perdre.。Un exemple senzill és el beisbol de secundària.。Hi ha innombrables exemples de perdedors que són més "brillants" que els guanyadors.。

No és possible simplement comparar、先の対戦での日本の負け方はぶざまであったそれは物量以前に思想が貧しかったからだしそのことを戦後の現在も理解しようとしないことがそのそのぶざまをさらに拡大し続けている敗戦を「敗戦」とすることでその全体像を記録し、A menys que t'enfrontis de cara、semblant als humans、No crec que mai sigui possible adquirir una ``manera significativa de perdre''.。"Odio perdre" també、Només posant-s'hi、És preciós。

人間のやることが鬱陶しい?

オジギソウ

すっかりうなだれて死にかけた植物だ…と思うのは早計とても健康的に夕方5時半もう眠っているのです可愛いですね

名前はオジギソウ朝は早くからまずシャキンと腰を伸ばす(今はガックリと腰から折れていますが)それから手のひらを太陽に向け手の指を一本ずつ開くように葉のギザギザの指のような切れ込みをいっぱいに開くんですその手のひらを指ですーっと触るとくすぐったそうに葉をシュルシュルシュルと閉じる外出から帰ったとき玄関前にポカーンと葉を開いているのを見るとちょっといたずらしたくなるすーっと触るとシュルシュルシュルと閉じるのがとても可愛い最近とっておきの私の「癒し」(秘密)

シュルシュル…の反応が早いほど健康と自分勝手に考えている実家には高さ3mほどの合歓の木(ネムノキ)があるネムノキもオジギソウと似た反応をすることで知られているが反応はどうだったか覚えていない葉っぱの感じもよく似ている

アトリエの窓辺にもたくさんの小さな植物たちが生きている一昨日はサボテンの大きな白い花も咲いた別のサボテンの小さな花も咲きかけているしふちょっちょの木の大きい真っ赤な花も咲いている癒してくれるものはたくさんあるのになぜか癒されない気持ちも毎日膨らんでくるのはどうしてなんだろう

「新しい日常」ってなに?

*以下は6月の非公開ブログから。7月31日の今日から振り返って見るのも意味があると考えた

「コロナがなんとなく収まりかけている」ようにも見えてきた6月ネット空間で「新しい日常」「新しい生活様式」という言葉がチラチラと視野をかすめるようになってきた

「電通」経由の政府・行政イベント宣伝が公然と行われている安倍氏曰く「それぞれの業界にはそれぞれ得意な企業がある」それが企業の存在理由ですから当然です。però、たくさんある会社の中で「この会社は特に優れている」と言って選ぶなら少なくとも税金を使う以上その他の会社より「優れた点」を言ってくれなくてはいけないでしょうねマスコミはなぜその「特に優れた点が何なのか」総理に質問してくれないんでしょうか。Probablement、「業界的に」「解ってまーす」ってことなんでしょうこういうのを「知的」というんでしょうね業界では。Doncs llavors、国民は「非」知的って認識なんでしょうか

どうやら「新しい生活様式」というのは「with コロナ」という意味らしいこのキャッチコピーの「古めかしさ」はさすがだ「美し国日本」よりは少し新し目だしあえて国策広告制作会社の「足元を見た提案」とは言わないが。I、意味不明という点でも太平洋戦争中の「一億玉砕」キャンペーンと酷似している一億玉砕して何をどうやって守れるのか玉砕した後のことが一切示されないという馬鹿馬鹿しさになぜ「一億」がついて行ったのか一世代前の若者に新しいスタイルを与えた「レナウン」の「シンプルライフ」が先頃倒産したばかりレナウンの「Simple life」と政府の「New life style」のどっちが新しいか国民のセンスを試しているわけだね?

En resum、①もう休業手当てはしませんそんな金もう税金には残っていませんがそれでも欲しいというならあなた方の子孫から借金しますよ(という脅し)  ②コロナにかかるかどうかは自分次第だから「自衛」してね(内閣を批判した天罰) ③国民なんかより目先の選挙が何より優先です(何がなんでも憲法改正) ってメッセージですね

「新しい生活様式」ってなんですか?なぜ「新しい生活様式」が必要になるのですか?それがどのように私たちのためになるんですか?
(6月のメモから再録)