Comparaison (comparaison)

"Mur jaune" - de la production de démonstration en classe

bonjour。Aujourd'hui est le dimanche 9 juillet 2023。C'est un peu nuageux et humide。nouvelles? En regardant les prévisions météorologiques, Shimane、De la mer du Japon, comme Yamaguchi, au nord de Kyushu、Il semble qu'il pleut beaucoup。C'est une catastrophe naturelle, il y a donc certains aspects qui sont inévitables.、J'espère que les dommages seront réduits dans les zones qui pourront être empêchées.。

Une production de démonstration pour le cours d'aquarelle mardi。Ce n'était pas fini en classe、Je l'ai dessiné jusqu'à ce qu'il ait fini après mon retour à la maison。Voici une comparaison des couleurs、とくに補色の対比をサブテーマにしています補色というのは「お互いに引き立て合う2色の関係」を指す語ですがこの場合は黄色の壁と木や建物の周囲全体の紫との関係がそれにあたります撮影もしましたのでいずれYouTubeにアップするつもりです

Ajouter à l'explication des couleurs complémentaires、L'idée est qu'il est appelé les trois couleurs primaires (rouge)、vert、Jaune) et un mélange de deux des deux、Le reste devient une relation de couleur complémentaire.、Si vous vous en souvenez, vous pourrez le faire grossièrement。Comme c'est bien connu、Mélanger le bleu et le jaune pour devenir vert、Le vert et le rouge sont les couleurs complémentaires.、C'est ce que ça veut dire。En réalité, vous devez utiliser la peinture ou la lumière.、Chacun a une couleur mixte complètement différente。Même dans le cas de la peinture、Par exemple, il existe de nombreux types de rouges avec des propriétés très différentes.、De plus, la peinture à l'encre et à l'huile、水彩絵の具のような素材の違いもあって組み合わせ方は無限にあると言っていいでしょう。juste、基本的な考え方はいま述べた通りです
 色だけでなくもちろん白と黒のような明暗の対比もあります「対比」の概念はさらに絵画などのビジュアル系だけでなく一般にも広く理解使用されていてあらゆる「比較」の場で意識的無意識的に使われています「あのひとは背が高い」というときそれは自分もしくは周囲と比べているわけですし「あのひとは美しくなった」というときはその人の過去もしくは同年代の他の人に比べてという風に比べていることになります「対比」は「比較」の中心と言っていいかと思います 

「対比」と対比させられる概念に「調和」というのがあります美術の世界では「調和」のなかに「対比」が含まれる感じですが考えようによっては逆のようにも見えますね 
 「比較する」ことは人間の大きな知恵ですその素晴らしい発展は「定規・物差し」の発明に現れました。Il a été partagé dans tous les domaines des concepts、Il est également intéressant de réfléchir à la façon dont il est lié à l'IA actuelle。

わたしの健康管理

新緑の池

お暑うございますわが町(市)でも「7月7日として」は過去最高の 34℃ だったらしいです(たとえ7月6日や7月8日が 38℃ だったとしても)今日は午前中市で行う特定健診(健康診断)に行ってきました皆さんはちゃんと健康管理できていらっしゃいますか?

わたしの健康管理法(!)は重視する項目が子ども時代以来の胃感覚や肌感覚などの「感覚本位」つまり“テキトー”なのですがそれがわたしの身体に合っているようでそれなりに健康だと感じています(「それが危ない」はよく聞く話ですが)

食べ物に嫌いなものは“あまり”ありませんというより毎日似たようなものを食べているのでそもそも嫌いなものは食卓に出ないようになっているからですわたしの育った小さな半農半漁の地域では今で言う「地産地消」の素材本位のものが中心で現在のようなカラフルでおしゃれな食卓などテレビでしか見たことがありませんでした
 今はなんと言っても食卓がビジュアでルいいですよねーそれだけで食欲をそそりますお腹いっぱいになってもキレイなスイーツなどがあると女性でなくてもその色とかたちに誘われて一口だけ試してみたくなります「食欲」があるかどうかは健康管理の大事な観点です健康な身体だからこそ食欲があるわけですからねお腹がすくまでは食べないことも習慣になっています

もうひとつの面精神面での健康管理になると知的な刺激の程度や脳の休息の時間などカロリーを計算するようなわけにはいきませんから事実上コントロール不能です
 この面では私のバロメーターは「睡眠」だけ「睡眠」に関してはいろいろありましたが最近では何の薬も飲まずに眠れるようになっています睡眠障害の原因が分かっていること忙しさに押されて悩んでいる時間が無くなったこと(それはそれで問題だけれど)が今のところ眠れている理由のようです

「昭和」という時代

2日前にアップしました

どこまで貧しさに耐えられるかは本人の問題だけでなく周囲との環境との問題でもあるかもしれません(おっといきなり「貧しさ」しかも「耐える」からですか?)周囲の誰もが貧しい時は気持ちの共有がありモノの貧しさはあっても精神的には比較的平易だったようです落語の八っつぁん熊さんの世界ですよねそこに現代のわたしたちも共感できる理由はたったひとつ「わたしたちもそうだった」からです

 わたしは戦後生まれなので第二次世界大戦後の日本人がアメリカという国の本当の政治経済の豊かさに触れることが公に許されて近世以後では黒船来航以来二度目の自分たちの貧しさに気づいたという歴史的事実を学んでいます
 その貧しさを「物質的なものだけ」と勘違いして頑張ったのが1970年代の「高度経済成長期」だったでしょうわたしのひとつ上の世代です日本人はアメリカ人以上に鼻を高くしましたが精神の豊かさなどそっちのけでお金を稼ぐことだけに夢中な時代でもありましたベトナム戦争が終わる頃戦争せずに済んだおかげで懐が少し膨らみ最先端の働き蜂たちが少しくたびれ始めた頃になってやっと「貧しさから抜ける」から「豊かさって何なの?」と考える余裕が日本にも生まれたように思います

 現代はどうでしょうか「豊かさってなんなの?」と考え始めた1980~90年代のちっぽけな「余裕」さえ今はありません一応GNP世界第三位の日本ですが経済以外のあらゆる分野で遅れはじめ世界についていけなくなりつつあるのが現状なようです
 昭和の時代「経済一流政治は三流」と言われた日本ですがわたしの見るところでは「経済二流政治は最低よりちょっと上」政治はどんどん沈む底なし沼同然で、10年後、30年後、50,100年後へのビジョンというものが全くありません世界統一ナンタラカンタラという団体から政策ビジョンさえ託宣されている始末彼らが平成令和とつづく時代で何を成し遂げ何をつくったのでしょう世襲議員の多い中昭和の財産の上に乗っかってきただけではないのでしょうか

 昭和の時代は確かに今より物質的には貧しかった今はモノが溢れています。mais、それらのモノによって精神的な豊かさややすらぎをわたしたちはちゃんと手にできているのでしょうか?昭和の時代がなんでも良かったなどとじっちゃんばっちゃんのような(実際じっちゃんですが)戯言は言いませんが少なくとも「このままじゃヤバイよ」という不安を取り除くためのビジョンを提示する発想も能力も政治には無さそうに見えます。Non、もしかすると日本だけでなく世界の多くがさまよい始めているのかも知れません皆があの時代は良かったなどと言わずに済む世の中になってほしいものです