
「愛の深さ」とは、結局のところ「関心の深さ」と非常に近いものではないか、je pense。Par exemple、先日、フジコ・ヘミングさんのことを書いたが、彼女のピアノへの愛と、ピアノに対する関心、興味の深さと、それは本人にはあまり区別できないのではないだろうか。
子どもに対する親の愛情だって、子どもが何を感じ、考え、今どうなのか、それらは関心、興味の深さと言い換え可能なのではないか。強いて分けるならば、それに自分がどう関わって生きようとするのかという、能動的な立場の違いがあるかもしれないが、彼女の場合で言えば、違いなどほとんどないのではないかと思う。
もしも、そのアイデアが正しいとするならば、Par exemple、絵画への愛の深さは絵画への興味・関心の深さだと言える。ただし、そのことは、絵を描かない人は描く人より絵画への愛が薄い(浅い)ということを、まったく意味しない。描くことが好き、観ることが好き、それぞれ別のものだと思うから。描かなくたって、好きな画家、作品、美術の歴史、美術の周辺技術など、興味・関心の対象となるものは、どれをとってもそれぞれ底なしに深いものがあるだろうし。
要するに、通り一遍で、済ませられないものには、どれも愛を感じていると言ったら言い過ぎだろうか。スイーツ愛でもラーメン愛でも、必ずそこに自分の何か、たとえば時間、たとえば体力、たとえばお金というように、負担をかけてでも「もっと深く知りたい」「深く関わりたい」という衝動のようなものがある。それを愛と呼んでいいのではないか、Cela signifie。
わたしたちは機械ではない。機械のような正確さも強さも持ち合わせない。コンピューターのような記憶力も計算の早さも無理。間違い、無駄なことを繰り返す。けれど止められない、知りたいこと、もっと関わりたいことがある。それは愛と同じものではないか?
自分の胸に手を当てて考えてみる。なにかを愛しているだろうか。