
-Uko leo、Unafanya nini?、Au ulifanya hivyo? -
Inaonekana kama swali ambalo sio shida kidogo、Wakati mwingine ni swali ambalo hutaki kuwa。Sikuweza kusaidia lakini fikiria、“ボーっとしてちゃ悪いんかい!”と投げ返したくなる時もあるんじゃないでしょうか。「今日の予定はもうありません」も、スマートフォンに表示されるたびに「だから、なに?」でした。
なぜだか、わたしはものの「切り口」を見るのが好きなようです。Wakati mimi huuma apple、Unaweza kuona yaliyomo kupitia kukatwa kwa ngozi。Hali ya aina hiyo、Ninapenda kuona hali hiyo。Sijawahi kuchoka kwa kutazama kwa masaa。lakini、Hiyo haitaendelea、Kwa ukweli, mimi hupiga pande zote。
Chisel alama wakati mchongaji hupiga kuni na chisels。鑿が木材に入り込む角度、早さ。刃先の鋭さと木材の柔らかさとの絶妙のタイミング、つまり「技」を、頭の中で超スローモーションで想像・再生し、修整・編集し直して、納得して初めて、「この目で見た」という気持になれます。わたしは彫刻家ではないので、わたしのいわば「脳内ビデオ」が正しいかどうかは判りません。彫刻家自身からのサジェスチョンがあれば、それをもとに再修正することになりますが、そこに自分のピントが合わない限り、「見た」という気分にはなれません。
そうやってすべて、ひとつひとつ自分の感覚の中に落とし込んでいくことが、わたしにとって「ものを視る」という意味のようです。na、その最も解りやすい場所、それがどうやら「切り口」ということらしいんです。Lakini、それはけっしてわたしだけの特別な視点でもなさそうです。時代劇映画などで侍が人を斬る。その切り口を検視すれば、どれほどの使い手か判る、などというかなり専門的な設定でさえ、誰もが疑問を感じずに映画に興じることができます。わたしの視点は、むしろとても常識的なものだということになるでしょう。
Lakini、通り一遍の“ざっと見”では無理です。映画の中だって、深く「じっと見る」はずです。じっと見ている=何もしていない、じっと考えている=何もしていない、という等式が「あなたは今日、何を・・」の質問から感じられるとき、一つの断絶がその切り口を見せているんだな、と思うのです。