「木を見て森を見ず」という格言がある。瑣末なところにばかり注意を払わず、全体を見通す目を失わないようにしなさい、というほどの意味だが、意味は分かっても具体的にそれが木であるどころか、葉なのか枝なのか、はたまた一粒の花粉なのかさえ分からなくなるのが、たとえばパソコンで作業をしているとき。
パソコン上で一枚の写真を拡大、修整し、色を微妙に変える、その作業の中にもさらに細かな作業がある。文字を入れるにもどんなフォント(文字のデザイン)を使うか、文字と文字の間隔や行の空きをどうするか、文字に境界線を入れるか入れないか、文字の色をどうするかなど、ここにもさらに細かい作業がある。瑣末?な作業がどんどん増えていく。
そのような枝から葉、葉から葉脈と分かれていく流れのなかで、翻って逆方向の木全体の方を向き、さらにその木の向こう、向こうへと続く森を見るというのは、かなり難しい。一方向でさえ自分の位置を見失いそうになるほど何層にも重なり、横にもいろんなアプリが並列する構造。しかもそれはまだ、解りやすい「作業」の例に限っての話。
「物事は上流から見よ」とも言われてきた。まさに樹形図のように森から木、木から枝葉へと見ていきなさい、ということだと解釈してきたが、学校教育はほぼ葉っぱから森を見る、それとは間逆の方向だろうと思う。
いつ、どの時点で視点を逆転させる教育が行われるのだろうか。今の日本で言えば、大学の卒業研究または大学院レベルで、やっとそういう見方を訓練するのではないだろうか。それ以外はすべて「個人の勉強」に委ねられてきたような気がする。それも受験勉強ではなく、一つのものごとに対する深い興味と、時間に縛られない自由な勉強といい仲間のいる環境があれば。「木も見て森も見る」ために必要な環境は、ますます遠くに離れていくように感じる日々。