
今日もイラストレーター・アプリの練習。昨日と今日の午前中いっぱいかかって何も作れなかった。一つ一つのツールについて調べる時間が長く、なかなかしんどい。おまけに昨日はウォーキングで先日痛めた足を悪化させてしまった。数日はウォーキングも”jisyuku”だ。
毎日パソコンに向かうと、当然ながら少しずつパソコンのことが分かるようになってくる。パソコンと自分との接し方も考えるようになってくる。パソコンを友人と考えるなら、こんなに有能で頼りがいのある友人なんて滅多にいるものじゃない。Zaidi、どんな無理難題を吹っかけても腹を立てるでもなく、差し出がましい口も利かない。森さんも「女性のいる会議は長い」などと言わず、オンラインの会議に慣れたほうが何倍も良かった。
脱線してしまったが、「パソコンのことが分かるようになる」とは使えるようになるということではない。パソコンと自分との違い、考え方の違いを感じるようになるという意味だ。パソコンにはハード、ソフトの開発者の歴史が、わたしにもこれまでの人生経験があり、それがお互いの現在の考え方や行動の基準になっている。その違いを認めないと始まらないということだ。パソコンの考え方に近づけばパソコンは素直に働くし、考え方が違えばギクシャクする。人間と同じ。
一方で、パソコンはある意味で「社会」そのものでもある。「世界」と言ってもいい。もう「架空」ではなく、すでに現実である。スーパーでお惣菜を買うのが現実なら、パソコンで冷蔵庫を買うのも現実だ。学校で授業を受けるのが現実なら、先生がパソコンで勉強するのも現実だ。パソコンとの接し方は自分が主体であるかどうか、そこにかかっているように見える。自分にとって何が大切で、どうなれば自分が幸せになれるのか、そのためにパソコンが有用なら仲良くなればいいし、要らないなら使えなくても何の問題もない。そこはまだ現実の方が、現実になっていない。