Après la 23e exposition

"Regarder le jardin" Tempera F6 2010

L'exposition Chen Shunkai s'est terminée hier (2023.06.18).。Tous ceux qui ont pris le temps de venir regarder、merci。Merci。J'ai moi-même beaucoup de personnes différentes、Je vais obtenir une invitation à l'exposition、Non seulement c'est occupé、Il est souvent difficile d'aller en raison d'une mauvaise santé.、Je ressens le mot "bien" avec le réalisme。merci。

À partir d'aujourd'hui, nous passerons à la prochaine horaire、C'est une salutation plutôt sombre, cependant、C'est la réalité。"Prochain horaire" peut sembler que vous allez démarrer une nouvelle version、En fait, c'est encore plus ridicule、Premièrement, les conséquences de l'exposition。Après cela, le plus petit des événements qui avaient été suspendus、Faire autant de tâches que possible、Dessin enfin、Ou vous pouvez commencer à travailler sur un nouveau travail。Considérant les plis avant d'arriver à l'image、Honnêtement, je suis assez ennuyé。mais、Pas seulement moi、Parce que tout le monde est comme ça、Je n'ai pas d'autre choix que de l'avaler。

Six jours pendant l'événement、Beaucoup de gens sont venus voir、Les membres donneront une brève explication devant chaque image。Regardez juste l'image、Vous pouvez également l'interpréter librement、Non seulement l'explication est inutile、Il a également un inconvénient qui donne une certaine direction à la sensibilité et à l'interprétation du spectateur。À cet égard、できるだけ何も言わない方がいいと思っているのですがどうもそれだけではなさそうです
 他人に説明することは目の前の自分の絵とこれまでの過程についてこれから描く絵について一枚の絵の外側からも考えるきっかけになります。C'est un gros plus pour l'écrivain、Il est sûr de dire que l'exposition se déroule pour cette raison.。En réalité, il s'agit peut-être de vous poser une question profonde.、Questions et réponses répétées avec des étrangers、Filtrez vos pensées à l'aide d'un nouveau filtre différent de l'habitude.、研ぎ澄ましていくことにもなるように思います

juste、やっぱり普段と違うことをするので変な具合に疲れます若い時は展覧会の前2~3カ月間は目の前の絵以外は何も目に留まらないほど集中閉会後の2~3カ月は虚脱状態で他に何にもできないほどのアップダウンでしたいまはもう個展もしなくなりそんなこともなくなりましたがそれでも疲れるのは年齢が加算されているからかも知れませんあと10年いやあと5年何を最後に表現できるのか大げさかもしれませんが人生の意味が問われているんだなと期間中ずっと考えていました

「今が愉しい」と言う「輝き」

汗血馬 ミクストメディア 2010

あなたは「今が愉しい」でしょうかごく最近この言葉を何人かの人から聞くことがあってそれはどういうことなのだろうかとちょっと考えてみたのです残念ですがわたし自身は今はそう言える自信がありません

一人は数年前ガンを患い一時は人前に出るのも嫌になり鬱気味にさえなったそうですがそこから発想を転換ささやかながら充実感のある生活を楽しんでいるとのこと一人は高齢ながら多趣味多芸の才を活かし健康に注意しつつ飛び回る日々一人は長い間難病と付き合いながら何度も絶望しかけ小康状態を保ちながら絵を描く喜びを感じているとのことでした他にもおなじようにどこかで苦しい時期を乗り越え(あるいは渦中にありながら)「今が一番愉しい」という人が何人かいます

若い頃にもおなじような言葉を聞いていたはずですが自分自身が老齢になってきた今はその聞こえ方が違ってきました若い頃はそれを「小さな満足」と多少軽蔑的な思考でとらえがちでした今は時が経てばたつほどそれが「貴重なもの」なんだと思うようになってきたのです「今が愉しいですか」という問いに答えにくい人答える気持ちにさえなれない人そういう人ほどそれがいかに貴重かを本当は深く感じているに違いありません
 ウクライナでの戦争だけでなく昨夜もたくさんの難民を乗せたボートが沿岸警備艇の目の前で転覆、100人近くも乗っていた子どももほとんど絶望的な状況だというニュースがありましたそういうことが世界のあちこちでずっと続いているのです戦争のない日本でさえ大雨地震などで突然家を失い放り出されるのを見ることが稀ではありません“戦争できる”国にしようなど愚の骨頂としか思えません

好きな絵を描き好きな音楽を自由に聞くことができるそのことがけっして「小さな満足」なんかじゃないということがやっとこの歳になってわたしにも解ってきたということですわたしは随分とぼけた人間ですがそれでも人間だけでなくあらゆる動物植物も「生きている」ということはこの瞬間でさえ実は命の奪い合いをしていることに他なりませんそこまで含めないとしても「今が愉しい」と言えることは小さな満足どころかこの有限の地球の上では「奇跡」に近い輝きだと言っていいのではないでしょうか

ベゴニアで遊ぶ

ベゴニア 水彩/コットン紙 F6
ベゴニア(制作中)

我が家の庭になかば打ち捨てられたベゴニアがひっそりと咲いています。mais、それはひっそりのままにしておきます。。これはずっと前に撮った写真をもとに最近続けて練習しているベゴニアのなかの一点これとはまた別の制作を現在YouTube用に編集中ですが展覧会も重なりアップロードまでに時間がかかっています

この賑やかさ(うるささ)は“あえて”やってみたものです制作中の絵と比べるとかなりうるさく感じますねこの状態はいわばターニングポイントでここからまったく別バージョンの絵にすることも可能です今回はあえて“うるさいかも知れない”方向にしてみました

教室で見せたら「着物の柄みたい」という評価がありました。Je vois、うまいこといいますね一部にほんの少し立体感をつけてありますが基本的に平面的なるべく平坦に塗っているからでしょうそれと色合いコットン紙はそれに適しているようですこれまでもたくさんの「練習」をしてきましたが最近YouTubeをやるようになってからは練習テーマがだいぶシンプルになってきています

Ici、少し疲れ気味?それもあって水彩を多く描いているのかもしれないとふと思いました小さな水彩の習作テーマも課題もはっきりしているので「思い悩むこともなく」集中して描く身体を使うことがストレス解消になっているのかもしれません