
俳句に「梅雨晴れ間」という季語がある。季語というのは便利な語で、これだけで、時には短編一章分の背景を描いたのと同じ効果を持たせることができる。俳句という世界の中では、特別に凝縮された一語だということになる。
表現とはこういうものが理想だろうと思う。絵ならば、一瞬(じっくり、でも良いが)で、小説一巻分の内容を眼から受け取ることができるもの。
確かにそんな絵もある。
母屋にはいつも着物姿の、初老の女性とその母親らしき老婆の2人だけが住んでいる(「いつも」?「二人だけ?」私はなぜそんな細かいことを知っているのか?)。広々とした、その日本庭園は実に立派で、きちんと手入れされている。恐らくたくさんの庭師が頻繁に手入れをし、従ってかなり潤沢なお金があるのだろうと推定される。
(「推定される」って言ったって、自分の夢の中だろ。いったい誰の夢なのか、夢の中でも笑っちゃうね)
「クジラの…」をやっとの思いで呑み込んだ植え込みから、母屋までの間に小さな流れが作ってある。その流れに沿って置石伝いに、時おりこれも石の八つ橋で流れを渡ったりしながら母屋に向かうのだが、フッと見上げるとまるで尾瀬を歩いているかのように、庭が広い(広すぎる!)のである。
たしか、お弁当のあった位置近くに母屋の屋根の影が落ちていたはずだ。「使命」を受け、母屋から出て間もなく、例の「お弁当」を見つけたのもついさっきのことではないか!?
子どもたちは母屋にいるのだろうか。あの子たちは、二人の女の子どもなのだろうか。父親はどこにいるのか。なぜ私は母屋で「使命」を受け取ったのか。口の周りの、いつまでも粘つく泥を気にしながらそんなことを考えていると、すでにそこは母屋の中だ。

「…のようなモノ」はちょうど、少し大きめの魚の切り身のようなかたちで、色はほぼ黒。Ndio、房総などで売っている「クジラの…」何とかいう、あれに近いが、中心部はもう少し厚い。一見ごく素朴な蒸しパンのようで、簡単に喰いちぎれそうに見えたが。
他にもキノコを細く切ったようなものが入っているが、ナメクジと区別がつかず、こっそり捨てる。何しろそのお弁当は庭の隅に、いつから置いて(捨てられて?)あるのか判らないほどで、半分 は泥が入り込んでいるのだ。
いくら使命とはいえ、(この使命を下したのは、十数人の子供たちで、幼稚園児から大学生位までと年齢も男女も混じっている。その子たちの関係は判らない。みな知らない子ばかりだ)腹痛なんかで死んではたまらないから、こっそり捨てたのはやむを得ない。だいいち、「クジラの…」を食えというのが使命であって、キノコではないし。
この夢明日につづく。長くなりそうだが、ご勘弁。