3年ぶりの個展です

個展Dm

Osim povremene izložbe skice akvarela, svoju će prvu samostalnu izložbu održati u tri godine.。Planiranje svake godine、Nakon što je dva puta otkazao, bio je to prvi put u tri godine。Naravno, nije da nisam uspio u to vrijeme、Nisam se mogao osjećati kao da ću održati solo izložbu.。Čak i ako dođete ovdje、Još uvijek se osjećam kao da želim prestati。Druga polovica je moje zanimanje za sebe。

"Čovjek skloništa" proizveden je prije zemljotresa Velikog Istočnog Japana.。Od riječi "sklonište"、Podsjeća me na sliku iz nuklearne nesreće、To je nebitno。Moj osobni、Želio bih još jednom naglasiti da je stvoren iz svakodnevnih senzacija.。

Nedavna glavna djela uključuju "The Scream Man" (2008), "Tatsumaki Man" (2009) i "Novi br. 5" (2010).、Povezano s "Čovjekom skloništa" (djelo drugačije od DM 2011).。Mislim da je ono što prikazujem portret ili postojanje divovskog čovjeka (vjerojatno o sebi).。

U "Čovjek koji vrišti" to nije ljudska "riječ"、Nacrtao sam ga jer sam htio vrisnuti kao "glas osobe".、Prije nego što nacrtate "Čovjek Tatsumaki"、Čak i dok sam nacrtao veliki šljag pojavio se u meni.。Što je groteskno u "Novoj genezi"? Pogledao sam vlastite fizičke promjene (uključujući starenje) i razmišljao o tome.。I "sklonište"。

Primarno značenje "skloništa" su, naravno, "krpe i građevine kako biste se zaštitili".。「自分は弱い生き物だ」という意識が前提になっているはずだ。ali、それでは巨体のグロテスクで暴力的な「男」のイメージと矛盾するのではないか?

日本の民話には「鬼・おに・オニ」という巨体の男・角が生え全身が赤かったり青かったりで、Osim toga, ima dlakavi, groteskni izgled、Postoji "ličnost" koja je čovjek s bijesnom i zastrašujućom snagom izvan dosega ljudskih i ljudskih bića.。Mnogo je priča o žrtvovanju mladih djevojaka.、Mnogo je priča o tome kako shvatiti tu djevojku važnije od vlastitog života。Ako pogledate samo to područje、もしかして私が描いているのはオニなのではないかと実は自分でも感じてくる郷里である青森ネブタの造形も面白い視点を示してはくれる

ali、それは牽強付会というものだ私はネブタを念頭に置いて制作したわけではないし世界の民話を勉強してからアイデアをひねったわけでもない。Daichi、そんなところにちょいちょいと意味をなすりつけては私自身のメンツが立たない自分がオニなら(オニであるがゆえに)哀しいとの共感があるその共感において「新生」と繋がっているのである(美しい女性を私はオニと心の中で呼んでいるおそらく美白美肌は地球の反対側に棲む多くの犠牲の上に成り立っているのだから)私は自分の歴史の中で絵を描いている自分の存在史を描いている私が他の画家と少し毛色が違うのはきっとその辺に理由があるのだろうと最近思う

※美しい女性がオニなら私は何であるのか逆説的に惑うのである世界は悩ましい

Exhibition:at Gallery Keifuu/minami-kosigaya/ phone 0489-89-1899 /11am to 6pm Come on, and talk with me.

 

Vozim bicikl u jednom ili drugom trenutku?

2011 akvarel gerbera F4 (djelomično)

最近自転車のニュースが増えているそれもマナーの悪さだけが特に取り上げられている感じだつい最近までエコだのクリーンだのと持ちあげていたのは誰だったのかもう忘れてしまっているらしい

事故が多くなったのは一つには乗る人が単純に増えたからだなのにそれに見合う施策がほぼ無いに等しかったからだマナーの悪い人は確かにいるだろう若者に特に批判が集中しているようだがおばちゃんたちのマナーの低さ(無知なのかずうずうしいだけなのかは分からないが)に較べればはるかにマシだと感じている。samo、命の危険があるようなのはちょっと困る

自転車にも乗る以上は年齢に関わらず交通講習を義務付けまたはもっと積極的に奨励するなどの施策安全なレーンの確保などまず行政がやるべきことがたくさんあるのではないかお金が無い人員が足りないという言い訳はそのために人が死んだり怪我しても仕方ないと言っているに等しいのではないか

Iznenada、自分がいつ自転車に乗れるようになったんだっけ?と考えた

思い出せば自動車を運転できるようになった時より自転車が乗れるようになった時の方がずっと感動的だったことを思いだしたそしてそのことが私の行動範囲を住んでいた地域をはるかに越えさせちょっとした冒険を与えてくれ想像もしなかった新しい風景を私に見せてくれた中学生の夏アルバイトして自分の自転車を買った8千円ぐらいだったような気がする1日200円で働いたがそのお金だけでは足りず残りは親が出してくれた

自転車の文化は日本には根付いていない自転車も自動車もそれ自体の良さを楽しむだけの豊かな気持ちを国民的に育ててこなかったからだそれらをただただ仕事の効率の為だけに使ってきた貧乏根性から未だに抜けられないこの国が高速鉄道から車窓の風景を奪ってしまっても一向に平気なのと根は一緒なのだろう 2011/11/12

 

心臓とウンコ

片腕の男 F6 2011

絵は自分の心臓だと思っていた

最近はそれが間違いだとは思わないが毎日心臓の鼓動を意識しながら暮らすわけではないようにそんな風に思いこまないようにしようと考えている

そんな考え方感じ方が自分を深化させるといつの間にか思いこんでいたのかもしれない本屋で平棚を目でなぞっているとある本の帯に「迷っている時は自分にとってより不利な選択をする」という言葉が目に入ったいくつかある章立てのうち耳目を引きそうないくつかを抜き出してアピールするいつものやり方なのだがその時々の自分の心境や関心によってひょいと目を引かれることがある。Drugim riječima、それが今の心境を反映しているということになる

ナショナル・ジオグラフィックという雑誌が「世界のどこでも生き残るためのサバイバル技術」という別冊を出したその中にも確か同じようなことが書いてあった「迷った時は選択をせずしばらく待て」迷いの中では視野が狭くなり本来ありえたはずの選択肢が頭から消えてしまうということだった(特に暗い中での選択はしてはならないとある)

一言でいえば余裕が必要だということだろうどんなに追い詰められてもというよりそういう状況であればあるほど「動かない余裕」が大切だということだこれは分かっていても難しいいっそ選択肢が無い一つしか道が無いと云う時には人は迷わなくなり心にも余裕が生まれるものだとも言う

絵が自分の心臓だなどと思い込むほど迷いは深くなりそうな気がしてきたそれを拝むように大事にし過ぎてはガチガチになってかえって心臓を悪くしそうだ逆に「絵は自分のウンコのようなものだ」と思えたらどんどん排出つまり制作できるのかも知れない心臓とウンコではえらい違いだが死んで化石になればどちらも似たようなものではなかろうか

1991年イタリア・アルプスの氷河で5300年前(新石器時代)の男のミイラが発見された通称アイスマンだ昨年11月にあらためて解剖が行われその結果が今年の6月に一部発表されたそこで特に注目されたのはアイスマンの体そのものよりその胃の中身だった

人や物の価値は後世が決めるウンコだって貴重な学術資料にもなり得るし一世一代の絵だと力んでみても残るかどうかは後世が決めるということに違いはないということだ