
かたちと色は視覚情報の中心。だから絵画がそれに工夫と研究を費やすのも当然。というのが「常識の罠」。
halisi、人はかたちも色も「そんな気がする」程度にしか見ていない。では何を見ているかというと、自分のイメージや記憶、つまり自分自身の反映とそれの「ズレ」を見ているのではないか、と最近考えている。
違和感の無いものは見えない。ズレが大きくなると感覚が鋭くなって、「絵」が見えてくる。ズレはまた、言葉の問題でもあるようだ。

Loquats kwenye bustani imekuwa rangi kabisa。Bado nilidhani ilikuwa tamu kidogo lakini、Inasemekana kwamba ndege wanakuja。Vizuri basi、Je! Imeiva kabisa?、Ndege alinifundisha。
Loquat inanikumbusha nchi ya kitropiki。Hiyo pia ni jua。Ubora wa nguvu ambao haujakaribia、Pia itakabidhiwa kwa wale wanaoiona。
不真面目でいいのさ枇杷の種大き

権現堂桜堤。木によっては五分咲きだが、全体としては二分も咲いているだろうか?でも、咲き始めると一気だから、見頃は来週水曜日だな、Hakika。
花見客はすでに満開。駐車場もびっしり。道も渋滞気味。ヒトは賢いのか、バカなのか。のこのこ出かけても、桜咲いてないから焼きそば、ビールと駐車料金払って菜の花を見て帰る人もいれば、沿道の子どもの作った(ブサイクでちっちゃい)お握りが一個150円で売れていたりする(商人への道はもう始まっている)。
権現堂の桜は染井吉野。桜を植えるのも交配するのも伐(き)るのもヒトだから、桜の生殺与奪権はヒトが握り、ヒトが桜に対して上位に見える。それが錯覚。
桜の「繁殖戦略」を考えると、「改良」されようと何されようと、日本全国にどんどん仲間を増やしている、大勝利だ。サクラで金を儲けようと、損しようと桜の知ったことではない。桜の「魔力」にヒトの「知力」が自滅「させられて」いることにも気づかない。
(お互いに次の行動考えつつ)串のイカを食いながら彼氏(彼女)と手をつないで歩くカップルや、時期だからと無理して孫、娘に手を引かれながら、脚を引き摺りつつ歩くジジ・ババというヒト戦略のなんと阿呆なことか。
植物の地球的歴史の前には、人間などまだまだアホでしかないようだ。