
長生きしすぎちゃったんだなあ、と思う。30代の頃は、60歳以降のことなど考えていなかった。あえて意識はしなかったけれど、そこで燃え尽きていいと考えていた。
lakini、燃え尽きるほどの努力もしなかった。怠けものだから、目の前のことだけとにかく片づけて、ダラダラと過ごしてきてしまった。今年も年末になってしまったが、何をやってきたかと考えることがつらいほど、何もやっていない。こんな状態をいつまで続ける続けるつもりなんだろうか。
日曜日。ついそんなことしか頭に浮かばなくなってしまう。
長生きしすぎちゃったんだなあ、と思う。30代の頃は、60歳以降のことなど考えていなかった。あえて意識はしなかったけれど、そこで燃え尽きていいと考えていた。
lakini、燃え尽きるほどの努力もしなかった。怠けものだから、目の前のことだけとにかく片づけて、ダラダラと過ごしてきてしまった。今年も年末になってしまったが、何をやってきたかと考えることがつらいほど、何もやっていない。こんな状態をいつまで続ける続けるつもりなんだろうか。
日曜日。ついそんなことしか頭に浮かばなくなってしまう。
「見てくれの良さ」の「見てくれ」。見てください、という意味ではありません、念のため。Lakini ndio、もとの意味は同じことだろうと想像はつく。要は「うわべ」ってことですよね。
目を惹くものには、何かしら新しい何かがある。それ自体が新しいものでなくても、演出が新しいとか、久しぶりで新鮮に感じるとか、何かがある。それを、見る側が発見するのではなく、「ホラ、新しいだろ?」とばかりに、いささか押しつけがましいのが「見てくれ」の正体なんだろうと思う。
ネット上の情報、つまりビジネス情報は99.9%「見てくれ」であると思っている。情報は、ネット上にすべてがあるわけではないのに、いつのまにか情報=ネット上という錯覚が起きるほどに、逆に言えばスマホ上にないものは情報と認知されないようにさえなっているように見える。ndiyo maana、詳しくは分からないが、何かを検索するというとき、ほとんどの人はまずスマホでインターネットを検索するに違いない。となれば、配信する側(多くはビジネス目的)は、まずその小さな画面の中で目立たなくてはいけない。「見てくれ」が悪ければその時点で負けなのだから。
見てくれだけでない、誰かにとって本当に中身のある情報は、発信側も受信側も、それを吟味する時間と知識とその他もろもろの努力が要る。つまり、つまり、そういうわけで、本当に自分が欲しい情報は結局自分の五感で拾い出すしかないのだろう。昔は自然に手に入った情報が、皮肉なことにこの情報の渦の中で、自ら頑張らないと手に入らないということを時々、実感する。そしてそれは、生成AIの登場でますます困難になっていくに違いない。人は、様々な意味ですでにコンピューターの僕(しもべ)である。生成AIがそれを絶対的なものにしてしまう未来しか、今のところ想像できずにいる。
水彩クラスのリクエストで「手を描く練習」をやってみた。これはそのうちの一つのデモ制作。デッサンを描き間違えて、手前の手が大きくなってしまった。生徒さんからの指摘で気がつく始末。うーむ、そろそろ眼の手術考えないといけないかも・・。
水彩クラスは秋の風景への練習を終え?、人物画への練習中。今日は手の練習だ。指摘は正しく、そのこと自体も嬉しい。課題もそれぞれ自分なりにこなせていて、ずいぶん勉強してきたなあと、感慨深い。
油絵クラスはみんなマイペース。水彩クラスとはクラスの性格が全然違うのも面白い。それぞれがそれぞれの課題を抱えているのが良い。Tu、(プロではないから当然だが)毎日描けないのが辛いところ。毎日いじるって、大事なんだなあと今さらに思う。
lakini、こなせるようになっただけではだめ。そこに自分なりの「魅力」を創り出さなくてはいけない。逆に言えば、全然こなせなくても「魅力」さえ創り出せればいいのだ。lakini、魅力ってなに?どうやって?それが一番大事。lakini、そこまでたどり着いた。ここからが「自分の絵」のスタートだ。まずは自分をよく見よう、そして頑張ろう。