できることから-2

「できること」は人によって違うそんなことは常識だけどそれは言葉だけでわたしなどはつい「(人と同じ程度のことは)自分にもできそう」な気がしてしまう「人と同じ程度の」の「人」ってどんな人のことなんだろう「同じ程度」ってどうやって計るのかなんて考えずに漠然とそんな気になっている

歌を歌う楽器を演奏する魚釣りをする山登りをする詩を書く料理をする・・項目を挙げればきりがないがどれをとってもプロ級に上手な人もいれば不得意な人もいる「普通」とか「人並み」ってどの程度なのか誰にも判定できない(のではないかと思う)なんとなく「自分の中の平均値?」に照らしているだけ経験がなければそれさえ作れないはずなのになぜか(神のように何でも)分かっているような気になっていたりするどうしてなんだろうか

一種の「情報・知識」があれば「知っている」ような気がするんだろうね知識の中には「他人の失敗」というのもある自分はそれよりはちょっとマシかなというヤツそうすると「できること」というのは一定の知識がありしかもそこそこ「自分はもう少し上手くできる」くらいの自信があるものということになるのだろうか

未経験のことならできるかどうかなんてやってみなくては本当は分からないできても出来なくてもやってみれば何がしかの手応えがあるそれを基にできそうだと感じたらもう少し深くやってみるそういう意味なら「できることから」ではなく「出来そうなことから」にタイトル変更だ一方いろいろやってみてどれも薄い手応えしか得られなかった経験者からするとその(薄さの)濃淡から「とりあえずこれなら」という感じで「できたことから」になるのだろうか
 最近「なんでこんなことができないんだろう」と頭を搔きむしることが増えたそれが髪の毛が薄くなったのと関係があるかないかは知らないが本来やるべきことを忘れてこんなどうでもいいことを妄想していたこれじゃできることもできなくなるワケだよね

できることから

「できることから」と聞けばほぼ自動的に「始めなさい」と心の中で続きの文言が浮かんでしまう日本の小学校に入学した経験のある人ならばつまり日本人の「ほぼ」全員が耳タコのアレ。lakini、入学以後はほぼあらゆることについて「どこまで行くのか」のゴールは自分で決めなくてはならないそれがどれも意外と重いのである

“推奨される” 多くの考え方では最初にゴールを設定するらしい例えば「パソコンを使いこなせるようになりたい」できること(スタート)は「まずパソコンを買う」一見普通に見えますがこれって「ゴール」も「スタート」もとんでもなくハードルが高くないですか?「設定」すること自体ハードルが高いんです

パソコンを買う前だから使いこなせるかどうか解らないのが前提だけれど「使いこなす」なんて到底無理だしどんなパソコンをどこで買ったらいいか見当もつかないのが普通じゃないですか?「パソコンを買う」もいきなりじゃハードルが高過ぎるでしょどんなに安くたって数万~数十万円はする買い物なんだよ
 せいぜいゴールを「パソコンについていろいろ知る」程度まで下げるスタートは「どこから知識を仕入れるかを知る」パソコンになじみのない人にとってはこれだって十分ゴールになり得るほどなんですよね

kwa sasa、子どもや孫に聞くとか使っている知人に聞くかする自分で調べられる人はすでにかなりパソコンの知識がある人だ絵も同じだし、labda、他の多くでも似たようなものでしょう
 で絵のゴールは?「(自由自在に)自分を表現できるようになりたい」これってハードルがとんでもなく高くないですか?それでも「パソコンを使いこなす」よりはまだハードルが低くなった気がするけど。ndiyo maana、相対的に「絵についていろいろ知る」程度まで「下げ」てもいいんじゃないか現実には「下げる」と言っていいのかどうかさえ「微妙」「いろいろ知る」の「いろいろ」だって案外深いよきっと

わたしとコンピューター

新年と言えば「春」春と言えば「桜」桜にチャレンジしてみる

わたしはYouTubeをやっているTwitterもやっているしこのようにブログも書いている。ndiyo maana、(わたしが)SNSに詳しくコンピューターは得意だろうと思っている人も中には居るかもしれない。kama、そう思われているとしたらとても恥ずかしすぎる
 たとえばYouTubeをやってはいても自分がアップできる方法1個しか知らないチャンネルをどう運営しどんな工夫をしてどういう方向へ行くのかなど皆目見当もつかない有様。kwa sasa、アップロード出来ているのが我ながら不思議な気がするほど知識も経験も(まる2年になるというのに)たぶん能力も全く足りない

わたしはコンピューターが嫌いであるやらずに済むならやりたくないとさえ思う。Lakini、コンピューター無しでは何一つできなくなったというよりコンピューターのおかげで何とかこの社会の中で生きていられると言っても過言ではない嫌いなものは嫌いそういう心理が働くからだろうなかなか新しい概念やソフトアプリなどに気軽に手が出ない常に後ろ向きで追い詰められて仕方なく始めるというのが実情である

しかしパソコンをまったく使わなくなるという選択肢はあり得ないパソコンは極めて有用な道具であるだけでなく単なる道具を越えた自分を開く(開発する開放する)ことのできるゲームチェンジャーでもあるなどと謂われているがわたしもそう思う下肢を失った人がせっかく手に入れた車椅子という移動手段を手放せないのと同じだと思うそれは単なる「移動手段」を越えてその人の世界を変える力を持つはずだから(例が不適切かな?)
 同時にパソコンによって失う代償も小さくない“自分を開く” と書いたが一方でずいぶん自分を小さく感じるようにもなった毎日“こんなこともできないのか” と自分を呪わない日は実際に一日もない毎日毎日自分の低能力さを思い知らされる自己肯定感が以前の10分の1もない。Kwa kifupi、コンピューターを知る前より「ハッピーにはなっていない」関連するが人生において残り少なくなってきた時間をソフトやアプリの操作法習得などに奪われる時間の大きさにも我慢ならないものがある

hata hivyo、コンピューターを使っているのは自分でありもっと使えるようになればもっと自分の世界が広がるだろうという期待感はゼロではない(萎んだり膨らんだりだ)どんなに生成AIが発展し世の中がそれに支配されようとも(今のままなら早晩そうなるだろう)それがわたしに置き換わるなどということはあり得ないと考えている
 AIは(それがどんなに感情を持ったかのように見えようと)データと統計による「推論」いわば「想定内」に過ぎないわたしは生身であり日常=「想定外」であるし(全く同じ日時間が二度とないという意味において)わたしにとっては(わたし自身が)「事実」そのものである「老化」という痛みを伴う弱点も持つけれど「感じることができる」のは神経細胞を持った生身であればこそ「感じること」と「自分を解放・表現すること」とを結びつけることそのときコンピューター以上の道具はたぶん見つからないそれが(今のところ)わたしがパソコンを手放さない理由です