Uhuru na Utendaji-2

US.D.I 2021.11.16

Mara ya mwisho、Kupata uhuru wa kweli, "Kuwa huru kutoka kwako, ondoa yako mwenyewe (tamaa na tamaa)."、Ilikuwa juu ya mtawa wa Zen。Naona、Nilidhani hivyo lakini、Wakati huo huo, nilidhani kwamba haiwezekani kwa 99.99% ya watu ulimwenguni.。

Hakuna kitu cha kupata kwa kuachana na tamaa na tamaa za kidunia、hapana、Inasemekana kwamba utapata ubinafsi wako wa kweli na wakati wako mwenyewe、Sijui jinsi hii itafunuliwa kwa dhati。Naweza kufikiria kuwa kutakuwa na maneno ya kibinafsi na ya kibinafsi (hatua) ambayo inaweza kuonekana tu wakati unafikia hali hii ya akili, kama "Uainishaji."、Unaweza pia kufikiria maneno ambayo huwezi kufanya vinginevyo。

kwa upande mwingine、99,99%Kati ya watu、Badala yake, kunaweza kuwa na wengine ambao wanajaribu kuwa waaminifu kwa tamaa zao na tamaa zao upande wa pili.。Tutaendelea kufanya mambo kuwa makali zaidi na lengo la "kudanganya watu."、Mwelekeo huo。Je! Itakuwa ulimwengu gani?。Ni nini、Kwangu, mabuu yamenifanya niruke、Viwavi, ambavyo vinakuwa vipepeo, vinaingiliana。Ikiwa viwavi ni "wao" wakati huo、Baada ya yote, nadhani ninaacha ubinafsi ambao nilikuwa juu - nina hakika ninakuwa mtu wangu wa kweli。

Huko, kama mduara、Labda wanaangalia tu awamu tofauti za kitu kimoja。Ikiwa ni hivyo ...。lakini、Kwa njia yoyote, sio vizuri kuwa na moyo wa nusu (hapana、Ikiwa awamu tu ni muhimu、Labda hiyo ndio kitu kimoja pia)、Ninahisi kuwa (kwa wakati huu)。Na nadhani 99.99% ya watu lazima iwe na mioyo ya nusu.。

自由・表現とは―ある禅僧のはなし

教室用デモ制作(未完成)

誰も気にせず好きな時に好きなことをするそれが自由だ―「それは違う」とある禅宗の僧侶が言うそれは自分にとらわれている好きな時好きなことそれらの多くは一過性刹那的で少し待てばどうでもよかったのかもしれないという類のものだ、na。

自分は朝3時に起きて身の回りのことを始める億劫でないことは一度もない(=億劫だ)があとで考えるとやはりそれが良かったと思えるからそうする。Wakati huo、もう少し寝ていてもいい(自由)があとで残念に思う毎日の日課が決まっている何をするか考えなくていい(思考からの自由)。ndiyo maana、自分がどういう存在なのか自分とは何なのか大きな時間を自由に遣う事ができる、rafiki。

Naona、Nadhani hivyo。彼は外国人だが若い時から「もっと自由に生きたい」と感じて親元を離れ国を離れ仕事を離れて日本のお寺に来たというところが修業では全く自由がない、hapana、勝手にしても誰も何も言わないのだがどんどん孤立していく経本を読むことさえできないのだが誰も教えてもくれない孤独になり国に帰りたくなったでも「国に帰って自分はどうする?」―すべては自分から始まっている―だからあらためて「自分に還る」そこから世界が変わった、Hiyo ndio。

Naona、Nadhani hivyo。自分に還る―「本当に」自分のやりたいことをやる刹那的瞬間的にではなくそのためにどうするか―何かを得ようとするのではなく捨てること空になることだ―そうだわたしも同じアドバイスを頂いたことを思い出したそれであらためて仏教のことなど勉強したんだっけ
―本当に自分のやりたいこと―それが表現になっていなければそんな表現はいずれ「人目を欺く」類のものに過ぎないのかな、Nadhani hivyo。何と言ってもそういう種の表現であればこそお金も名声も得られるのだし―それを捨てる(「諦める」とは違うと思う)ことの難しさ厳しさそして自分の表現のことを想う

いま「ポテトチップス」?

Calbee Craft ポテトチップス (紙に鉛筆)

先月末水彩クラスで「ポテトチップス」をモチーフにしてみた(その周辺のことはすでにこのブログに書いた)これまでの「伝統絵画的モチーフ」からいきなりポテトチップスでは生徒さんはまごつくだろうしわたしにしてもこれまでのモチーフで描いてきた絵とポテトチップスとの関係を定義・確認しておく必要があるだろうと思ったので実施の前に(iPadで)自分でいくつか描いてみたそうして世の中はモチーフだらけというかモチーフの中に住んでいることにあらためて気がついた

旅先で珍しい食べ物とかがあったりすると今なら多くの人がインスタグラムなどで“すぐ”(不特定多数の人々と)共有することができる。lakini、ほんの10年前でもそのようなかたちで(せいぜい)友人知人と共有するまでにはかなりのタイムラグがあったそれには写真を現像プリントして友人に郵送するなどしか方法がなかったような気がする

共有するにはまず写真か文章(手紙)が必要だった絵を描ける人ならそれにもう一つ「スケッチ」という武器がある。Lakini、多くの人にとって写真やスケッチの90%以上は記録のためであったと思う。ndiyo maana、スケッチも絵の一つであるという認識はあっても頭のどこかに「それは(本格的な)絵」のためのあくまでメモのような次元をこえるものではないというハードルを設けていた
―「ポテトチップス」などはそういう意味での記録的興味の対象ですらなかったそこらじゅうにあふれ過ぎていてあえて“記録する価値”が見出せなかったからであるそれに「安っぽく」見えた。Tu、いかにも人工的現代的な商品という外観はポップアートを持ち出すまでもなく自分の中でも「これらを抵抗なく描いたらそこから(自分の)新しい絵が始まるかもしれない」とは思っていた。9月に「青いカモメ展」が終わり生徒さんの中にも何か新しいことをやってみたいという気持ちが湧いてきていたところだったようで「今がポテトチップスだ」―ちょうどいいタイミングで始める事ができたのだった

Maji ya maji、油絵にも「いきなりポテトチップス」そんなわけで鉛筆デッサンにもポテトチップスである(描き方は極めて古典的オーソドックスだがこれは生徒さんの希望である)現在の「高校の美術部」とかなら「え~っ今ごろ~!?もう終わってるよ!」だろうけど―それはともかく実際に描いてみると案外に面白い(本格的な)絵にならないどころかこれこそ「絵になる(すべき)」素材ではないかとも感じてきた